2010年3月
北京にて、騎馬民族のルーツを知る
9/6(日)
北京までは夜行列車で行った。本来は中国の国造りの基となった中原の大平原を眺めながら北京へと向かいたかった。しかし、洛陽―北京間は昼行特急が1日2本しかなく、始発が成都、ウルムチとともに遠隔地なので、きっぷの入手が困難なのだ。中国鉄道のきっぷの入手法は驚くべき複雑で、優等列車、ことにファーストクラスに関しては、地元の始発列車しか基本的に取れない。この事情に関しては本誌連載で詳しく述べたいと思っている。
さて、わがK?270号は洛陽が始発。20時21分発で、北京には朝の6時57分に着く。新型空調装備の車両で、軟臥車(A寝台)はきわめて快適。食堂車で寝酒の白酒(なんと50度!)を飲み、コンパートメントのべッドに入り、うとうととしていたら、北京西駅に着いてしまった。ちょっと早いな、と思ったら、定刻の1時間も前の5時50分!だった。(こんなこと日本ではありえないよ)
北京でのシルクロードの痕跡は、モンゴルの"元"時代の遺産である。となると、スルーガイドのBB氏の出番である。BB氏はウルムチ在住の中国籍のモンゴル人だ。彼の体には今もチンギス・カーンの末裔の血が流れているようで、夜な夜な酒が入ると、天下国家の激論がかまびすしい。
ユーラシア大陸のほとんどを支配した大モンゴルの時代はとっくに終わっているというのに、いまだに中世の"黄金の日々"は彼の脳裏で羽ばたいているのである。
北京では、大都(今の北京の基)の遺跡を公園にした元大都遺跡公園(フビライがヒキガエルのような顔をしている)、ラマ教の大寺院の雍和宮(ようわきゅう)、ネパール様式の仏舎利塔のある白塔寺、モンゴル料理のレストランが並ぶ旧モンゴル人街と1日中歩いた。

(写真 天壇)
ふと思ったのは、聖徳太子を祭る法隆寺の夢殿も同じような円形の建物だったのではなかったか? 故江川波夫先生の"日本人・騎馬民族説"が懐かしく思い出された。日本人のルーツはモンゴル高原の騎馬民族だった、という説である。聖徳太子の顔も騎馬民族系、という推論だった。
もうとっくに消滅した学説のように思うが、天壇を眺めていると、とても新鮮な気分になった。実は聖徳太子も夢殿で見果てぬ宇宙と語らっていたのかもしれない。
悪名高き河南人に、ぼくらも逆襲された!
9/5(土) 洛陽
洛陽は隋の都。西安に都が移される前の古都である。聖徳太子が607年に小野妹子を派遣し、妹子は煬帝に謁見する。
「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」
と太子のメッセージを渡して、
「辺境の地の若造が、何をぬかすか!」
と煬帝の怒りを買ったというエピソードが残っている。聖徳太子が煬帝とさも対等のような態度だったからだ。
思うに小野妹子は当時の外務大臣のような存在だが、翌年には悲世清(はいせいせい)とともに仏典を携えて、帰国し、ふたたび彼を母国に帰している。煬帝に叱られつつも、うまく太子の思いを実行したものだ。なかなかの手腕で、ほめてあげたい。
さて、洛陽は河南省にあり、河南人は昔から評判が悪い。スルーガイドのBB氏によれば「河南人を見たらドロボーと思え」と警戒の意思を緩めない。
実際には天下のビンボー省で、多くの人々が出稼ぎに出ている。ちょうど新疆(しんきょう)の綿摘みの時期で、ウルムチ行きの列車はどれもが、「民工」と呼ばれる出稼ぎの男たちで混んでいた。

(写真 白馬寺)
ぼくは「黄河が見たい」と言った。黄河は洛陽の北、30kmくらいのところを流れている。中原の穀倉地帯を流れる黄河を一目見たかったからだ。するとBB氏が「黄河に行って白馬寺までで150元でどうか」と交渉する。運転手は「モンゴル人には昔からかなわないよ」と渋々了解して、車の方向を変えた。
黄河に着いたが、黄河が見えない!運転手は最近できたばかりのダムを見せたかったのだ。ちょうどお昼になったので、それじゃあ、ダム湖畔のレストランで黄河の「鯉」を食べようということになった。池簾に泳ぐ活きた鯉の姿料理だ。BB氏は嫌がったが、ぼくらは運転手も誘い、一緒に食事を取ることにした。3人でも4人でも料金はさほど変わらない。残すよりはいいじゃないか、という判断だ。運転手は最初遠慮したが、円卓を囲むと、一番の食欲だった。次から次へと平らげて行く。しかも一番良さそうな部分に最初に箸をつけるのである。礼儀しらずというべきか、それでもニコニコしながら、「中国人の多くは日本軍に殺されたけど、時代が変わっているから、今は尊敬しているよ」などとリップサービスを怠りない。
食事が終わり、さらにドライブして白馬寺へ到着。約束の150元を渡すと、
「いいよ、いいよ」
と言う素ぶり。ご馳走したから、受け取らないのか、とも思ったが、約束だからと無理に彼の掌に金を押しこんだ。
白馬寺はインドから中国へ仏教が伝わった最初の寺だ。経典が白馬に乗って届けられたという伝説があり、その名がある。玄奘三蔵もインドを回り、経典をこの寺に届けた。日本の留学生、空海もこの寺に滞在した。そんなシルクロードにゆかりのある寺だ。
見学が終わり、門を出ると、例の河南人の運転手が嬉しそうな表情で待っていた。恩義を感じて、われわれを待っていてくれたのだろう。
猛暑と湿気で汗びしょになったので、一度ホテルへ帰ることにした。
「家族は三人、勤めていたがリストラにあって止めて、運転手をしている。給料は上がったが、仕事はきつい」
などと運転手の家庭事情を聞きながらホテルに到着。
メーターを倒してないので、てっきりサービスかと思ったのだ。ところが、料金は50元! メーターならば15元くらいのところである。運転手の顔はさきほどまでの穏やかな顔とはすっかり変わっていた。
「払わなければ、訴えるぞ!」
といういきなり険悪な雰囲気だ。
はいはい、と諦めて支払った。
BB氏は、
「あれが河南人のやり方ですよ。彼は最初からこのコースで200元の腹づもりだったのですよ。われわれはまんまと掌中にはまったのです」
と食事を誘ったぼくに反省を求めた。
当初はモンゴル人が勝ったが、結局最後は河南人が勝ったのである。
大鴈塔を見物し、共同浴場に浸かる
9/1(火) 西安
9月に入り、いきなり秋がきた。西安にいる

(写真 西安駅前)
当初の計画では西安はすっかり近代都市になっているので、素通りにしたが、途中から急遽3連泊を追加した。シルクロード時代の"花の都"だし、ずっと中国の中心だったこの街を通り過ぎるのは、あまりにもしのびない。玄奘三蔵ゆかりの大鴈塔はやはりシルクロード発着の記念遺跡として写真が必要となるだろう。体力も限界に達していたので、最終行程を前にして、ここで少し休養をとっておこう、という意図もあった。
西安は数度訪れているが、来るたびに変化している。今回は3年ぶりだったが、高層ビルは倍くらいに増えており、鐘楼の前にスターバックスやハーゲンダッツが登場していた。そういえば以前目立った日本の航空会社系のホテルも皆名前が変わっている。業績不振で撤退したのだろうか。そう思えば、ここ2、3年の中国旅行は惨々たるものだった。鳥インフルエンザにはじまり、上海の抗日デモ、オリンピックのチベット騒動、それに加えて今度の豚インフルエンザと新疆(しんきょう)の事件である。かつては大雁塔広場には日本人が群れをなしていたが、今はほとんど姿を見ない。タクシーの運転手も、「広場はいつも人だかりだったが、5月と10月の連休だけしか混まなくなった」と嘆いていた。
さて、西安では風呂の話を報告しておこう。この旅ではバザールと麺食、温泉(銭湯)にこだわっている。世界で一番風呂好きなローマ人と日本人を結んだシルクロードには温泉(銭湯)の文化もきっと残されているだろう、というのが企画意図だ。これまでイスタンブール(トルコ)、イスファハン(イラン)、ウルムチ(中国)と共同浴場に入ってきた。それらは本誌連載で詳しく報告したい。
西安の街には諸所に「浴場」「温泉」の看板があり、共同浴場がある。さすが玄宗、楊貴妃の華清池(温泉地)ゆかりの土地である。その一つ、市中、小雁塔ちかくの「天源浴場」に入ってみた。
外観は5階建てのホテルのように大きな建物である。中に入ると、受付と脱衣場。その向こうにあるのは大きなプールのような4つの湯舟だ。きけば温泉ではなく、水道水を使っており、水温をそれぞれ変えているという。ここでは水着など着用せず、日本と同じく皆すっぽんぽんで、まずは湯舟(プール)に浸かり、体をほぐす。次は蒸気風呂。高温の蒸気が渦巻く部屋で汗びっしょりになる。中央には壺がおいてあり、塩が山盛りだ。塩で体をこすると肌がキレイになるという。蒸気風呂が終わったら、さらに高い水温の湯舟に浸かり、サウナ室へ。ここは日本のように熱くはなく、寝ころんで体を休める。なかにはイビキをかいて眠っている人も。汗を出しつくしたら、洗面台へ移動してはじめて体や髪を洗う。ここにはシャンプーやリンス、ひげ剃り、歯ブラシまで用意されている。さらに希望者はあかすりマッサージサービス(別料金)がある。
二階には健康機器がおいてあり、三階、四階には宿泊施設もある。温泉といおうか、ヘルスセンターといおうか、フィットネスクラブといおうか、とにかく大満足の銭湯体験であった。
日本と違うのは、ここでは前をタオルで隠したりはしないこと。湯舟の縁に灰皿がおいてあり、浸かりながら喫煙できることなどである。ちなみに料金は68元(約1000円)で、時間制限はなく、一日じゅう過ごすこともできるという。
スルーガイドのBBさんによれば、ここは最高級クラスで、中国の街にはもっと小規模の共同浴場(入浴料10元=150円)が数多くある、という。そちらのほうがイメージは日本の銭湯に近いので、機会があれば体験してみようと思う。ただしBBさんによれば、
「きれいじゃないですよ。湯など黄色く汚れています」
だって!!
中国のど真ん中を走り、見えたモノ
8/31(月)西安
やっとブログが追いついた。
日本を出て、45日目のことである。この間、列車移動、遺跡・テーマ取材などに連日追われ、原稿整理もままならない。トルファンで以後のスケジュールを変更して(帰国を4日間延長)、やっと日毎の取材メモの整理がかろうじてできるようになった。
ネット、メールのパソコン環境も満足のところは一切なかった。ホテルでしか作業はできないので、前もって購入しておいた海外でのイー・モバイルの通信データカードはほとんど役に立たない。おまけに各ホテルのネット環境もばらばらで、ネットは開けてもメールが起動しなかったり、また受信できても送信できなかったりなど。原因の詳細は分からないが、街へ出てネットカフェを探したこともしばしばあった。
ここ西安のホテル(西安賓館)のネット環境はこれまでで最高だ。ランケーブルだけでユーザーネームもパスワードも不要。取材協力、手配を依頼した「トラベル世界」とも分刻みでスケジュールの変更・確認ができた。これが本来パソコンの威力なのだ。これまではこのパソコン通信が足をひっぱってきた、という恨みもあった。敦煌ではブログ一つ送付するのに何度もやりなおし、6時間くらい送付だけの作業にかかった。それでも通信が機能するだけでうれしくなり、ストレスは軽減した。
さきほど西安駅に降り立ち、ホテルでシャワーを浴び、今パソコンに向かっている。気温は20度、曇天。気温35度、カッーと快晴の敦煌に比べると、まるで外国に来たようであり、初秋を迎えたという感じだ。

(写真 列車から見える朝日)
ウルムチ発、連雲港東行きの「1352直快」は走行距離3954km。ウルムチを午後の22時36分に出ると、終着の連雲港には4日後の午前6時06分に着くというロングラン列車である。ぼくらは途中の柳園から西安までの一区間を乗ったのだが、一区間といえども約29時間、走行距離2096kmもあるのだ。日本でいえば東京から石垣島くらいの距離だろう。
実はこの列車にぼくは30年前に乗っているのだ。田中角栄内閣時、日中国交再開後間もなくのことで、日本人がはじめてシルクロードに旅行できるようになった矢先のことだった。上海からウルムチへ3泊4日の列車旅行だった。
あれから30年が経ったが、なんと客車は当時のままのものだった。
軟臥車(グリーン寝台)も硬臥車(普通寝台)も餐車(食堂車)も同じもので、ただ当時は「特快」(特急)だったが、今は「直快」(準急クラス)に格下げになっていた。乗務員のサービスも当時と同じようで、日本人(外人)に対しては特別のハカライがあり、撮影にも協力してくれる。それまでの緊張した新疆(しんきょう)とは大違いだった。
変わったところといえば、当時は西安からは蒸気機関車がひく単線だったが、今は電化、複線化され、天下の剣とでもいうべき烏鞘嶺(うしょうれい)の峠越えは長さ40kmのトンネルになっていた。
渭河にそってえんえんと列車は走るが、かつて対岸にはロバ道のようなか細い、往時のシルクロードが並走して続いていた。30年経った今は、舗装道路に大型バスが列を連ねて走っている。
ふと、関沢新一センセイ(作詞家、脚本家、詩人)を思い出した。センセイはぼくの駆け出しの頃の師匠で、
「どや、アシハラ君、シルクロード、ゆこうや。まだ汽車がおるで。汽笛がきこえるで」
その一言でぼくは師匠とシルクロードへやってきたのだった。
センセイはすでに他界されたが、思えば、この旅は亡き師匠に報告するために、呼ばれたのかもしれない。
♪今夜も、汽笛が、汽笛が、汽笛が
都はるみの歌う「涙の連絡船」は師匠のヒット詩作のひとつだが、その汽笛は「実は蒸気機関車の汽笛なんや」と、その旅でしみじみと聞かされたことをいま思い出している。
3年前の"あの人"には、会えなかった
8/28(金)敦煌
8月28日、やっと敦煌に着いた。
ここも懐かしい町である。3年前に来た時に比べると、埃っぽさはなく、清々しい緑の並木が美しい。
翌日、ぼくの中で恒例になっている"莫高屈詣で"へ。ここも以前より整備され、周辺は美しい公園になっていた。日本語ガイドに案内されて、10屈くらい見学した。いつも感動するのは、1000年以上も前に、人里離れた洞窟で、幾多の僧たちが洞窟を掘り続け、仏の姿を描き続けた根性だ。
装飾はかなり退色しているが、極楽浄土を願う人々の時代々々の思いのようなものが伝わって、いつの世も来世を願う人の気持ちは変わらないのだ、と実感した。近代哲学以来、ぼくらは来世など信じていないが、それまでは(いや今もだろう)、人々は長らく極楽(天国)への道を願い続けてきたのだ。キリスト教もイスラム教も、仏教もみな同じ思想だ。来世を信じられなくなったのは、つい200年来の無神論者(ニヒリスト)で、世界でも日本人が一番多いかもしれないな、などと思う。
現世の苦難は時代を経るごとに薄れてきたように思うが、ついこの前までは戦争があり、原爆のような生き地獄があり、今も世界のどこかで生死のきわをさまよっている人々がいることを思うと、薄暗い洞窟の1000年の微笑みの意味が少しは分かるような気がする。
鳴砂山、月牙泉、玉門関、陽関など敦煌の名所を一通り見て、夕食は夜市へ。
夜市とは夜のバザールで、屋台の飲食店が集まるところだ。敦煌の夜市で面白いのが、「名喫広場」なる屋台のコーナー。それぞれにママさん?がいて、客の接待をしてくれるのだ(料理はほかの専門屋台が出前してくれる)。ここで売っているのは酒の類で、いわば「屋台飲食クラブ」のようなもの。それが50店舗ほどズラリと並んでいるから銀座も顔負けなのである。

(写真 敦煌の夜市)
3年前の甘い体験を期待して、名喫広場を歩いたのだが、広場はすっかり模様変えして、若い女性ばかり。きけば去年から店主は35歳以下の女性に制限されたとか(経営は敦煌市がしている)。
しかたなく若いママ?の店に座り、思い出話をひとしきりして、前回のモテた理由をきいたら、
「耳たぶが大きくてお腹が出ているからお金持ちに見えたからでしょ!ジーパンにTシャツのその方は労働者だと思われたのよ」
といともカンタンに一蹴された。
そうか、やはり金だったか?
中国人の「金次第」、「見てくれ判断」は今も昔も変わってないようだ。
嵐が去ったトルファンの夕べ
8/25(火) トルファン
忘れないうちに書いておきたい記憶がある。トルファンの回族の食堂でのことだ。小さなお店はテーブルが二つしかない。昼間はテーブルが店内においてあるが、夜になると、表に出して、オープンレストランになる。つまり屋台だ。

(写真 トルファン名物のシシカバブ)
親子三人が働き、父親がコック、母親が注文取りと経理、中学生くらいの娘が料理を運んでいる。三人で実にテキパキと働いていて、気持ちがいいのと、とびきり安い(地元の新疆ビールが3元=45円!)ので、トルファン滞在中にしばしば足を運んだ。
中国は多民族国家である。とりわけ新疆はウイグル人が多い。回族は西安周辺に多いが各省に分散している。漢民族はこのエリアにはもともと少なかったが、政府の"西部開発"の方針で、新しい入植者が多く、ここ10年間で急増した。ウルムチはもともとウイグル人の街だったが、今や漢民族が90%に達している。今回の7・5事件の背景には、そうした少数民族の危機感があるといわれている。
トルファンはまだウイグル人が多く住み、夜には屋台がたち、シシカバブを焼く匂いが通りに立ち込め、昔のシルクロードの面影が残る街である。ここにも漢人が移住しはじめた。
と、ぼくのテーブルの前に突然、漢人が腰をおろした。骨太の筋肉のしまったお兄さんだ。ぼくのほうをちらっと見ると、後ろポケットから財布を取り出し、デンと机の上に置く。いかにも「俺は金を持っているぞ」という偉そうな態度である。
すると、大声で、
「ヨ―イ、フィン、シャ―ゴ、シャーゴ!ヤンジュウ!」
何か娘に注文したらしい。
今度はケイタイに電話して、
「ハイホマ、シンイーズンモヤ、インクズメヤン!!」
大声でしゃべりまくる。声を荒げて、まるで借金の催促か、ケンカしているようだ。
その間、ちらちらとぼくの様子を伺う。やはり気にしているのである。
ぼくはローマを出発して以来、ヒゲを伸ばしている。おまけにサングラスをしている。漢人の男は、どうやらぼくが何族か、測りかねているようだ。ウイグルではないし、回族でもないし......。
「チンクエイゲッ!ゲッ!」
どうやら料理を催促しているようだ。「早くせい!」とでも娘を叱っているのだろう。やけに声が大きい。隣のテーブルのウイグルの男女がびっくりして振り返るほどだ。その間にもペッ、ペッとところかまわず唾を吐く。
漢人には今も「中華思想」をもつ男が多いといわれる。世界で選ばれた、一番偉い民族だ、と勝手に思い込んでいる。だから隣近所にははばからない。
「ヨータン、ジンヂュ」
テッシュペーパーが出された。
漢人はハンカチをもたない。汗はテッシュで拭くのが常である。夏の夕暮れだ。男はびっしり額に汗をかいている。
娘が重ねたテッシュを全部はとらずに、少し残してある。やはり、ぼくのことを気にしているのである。ぼくは知らんぷりして、相変わらず、ひとり新疆ビールを飲んでいる。
「チンギィーチャ!、クエリャ、クエリャ!」
茶が運ばれた。「お茶よこせ」と言ったのだろう。
やっと料理が運ばれてきた。餃子ではなく、砂鍋だった。砂跌で作った鍋に野菜や羊肉が山盛りになった鍋料理だ。男は汗だくになりながら、ワッサ、ワッサと平らげる。時折ペッ、ペッ! と骨をテーブルに吐き出す。ほんの5分くらいの食事時間だった。
「ドゥショウチェン!」
男は金をばらまくように置き、立ち去った。
嵐が突然過ぎ去ったようだった。ウイグル人の心境が少し分ったような気がした。新疆では嵐のごとく新人類が急増しているのである。
回族の店の、小さな餃子屋
8/25(火) トルファン
予定ではカシュガルからトルファンへ。南疆(なんきょう)鉄道で同じ道を帰るはずだったが、いささか疲れて、取材がスローになってしまった。スルーガイドのBBさんとカメラマンの立木さんと相談して、ぼくだけ先にトルファンへ飛行機で飛び、二人をホテルで待つことにした。そうすれば1日分が浮き、少しは休養ができそうだし、溜まっていた取材ノートも整理できるだろう、というつもりだった。
ところが夕方ホテルに着いたら、バタン、キューで、そのまま翌朝の9時まで眠ってしまった。目が覚めるとだるくて、動けない。この旅行中の平均睡眠時間は5,6時間だったから、いきなり12時間以上眠って、体がおかしくなったのだろう?熱はないが、とにかくだるくてベッドから這いだせない。
午後1時頃、急に空腹感に襲われ食事をしに外へ出る。ふらふらしながら歩くと、小さな店があり、思わず飛び込んだ。
中国語はまったく駄目なので、メン(麺)! ハン(飯)!と言うと、何だが通じたらしく、主婦のようなおばさんが娘をうながし、注文を取りに来た。
回族の親子らしく、顔、風貌は漢人と変わらないが、店には「清真(イスラーム)」の看板が出ている。回族は13世紀頃、アラビア系の回教徒が中国に移住して漢人と混血化したが、今も頑固にイスラーム教を守っている。

(写真 トルファンの餃子屋)
「ダンプリング」
と英語で言う。
「そうか、この子が通訳なのか?」
と理解して、
「ヌードルでも、ライスでも何でもいいから」
というと、ふたたび、
「ダンプリング」
「ワッツ、ダンプリング?」
ときくうちに、
「そうか、餃子のことか」
とようやく納得。餃子は回族料理として有名で、羊肉と野菜で10種類くらいあり、1個わずかに3角(4,5円)!
こちらの食べられる個数で注文する。10個頼んでもたったの45円である。中国の店はみな専門店で、餃子なら餃子、饅頭なら饅頭、麺なら麺しかない。まる1日何も食べていないので、新疆(しんきょう)名物の小さな水餃子をあっという間に10個平らげ、冷たいビールを飲んで、合計たったの6元(約90円)!
なんだか回族の働き者の母親と娘に悪い気になって、その晩、カシュガルから着いた二人を誘って、ふたたび餃子を食べに行ったのであった。
ラグ麺の味わいは中国の麺と、イタリアのパスタの融合だった
8/22(土) カシュガル
シシカバブ、ポロ、ラグ麺は新疆(しんきょう)の三大名物料理。ウイグル人にとっては欠かせない日常食である。街角の広場の屋台に羊肉の焼け焦げる匂いがすると、食欲がうずきはじめる。一日の疲れが、冷たいビールと肉を要求するのである。
ただし、これは日本人だけのことで、ムスリム(イスラーム教徒)である現地のウイグル人は酒を飲まない。8月20日からラマダン(断食月)に入り、夜明けから日没まで食事、水など体に入るものは一切禁じられる。観光客(といっても今夏はウルムチ事件の影響でほとんどいない)にとって困るのは屋台や食堂が日没まで開店しないことだ。カシュガルの日没は午後9時頃である。観光客は漢人経営の店を必死で探すことになる。
さて、シシカバブはご存じのように羊肉の串焼き。

(写真 カシュガル市街)
このラグ麺、これを屋台で箸を使って食べると、中華麺のような趣となり、ホテルでフォークを使って食べると洋風のスパゲッティー風な味わいになる。中国の麺とイタリアのパスタのちょうど中間のような料理で、これまたシルクロードの中間点にいることを実感したのであった。
南疆鉄道、風の道をゆく
8/21(金)~8/22(土) ウルムチ~カシュガル
ウルムチからカシュガルへ。新疆(しんきょう)の二大都市を結ぶ南疆(なんきょう)鉄道に乗ったのは、これで二度目だ。2001年10月に開通し、総延長1588km、所要約24時間、標高4300mの天山山脈を越える雄大な路線だ。
トルファン付近の無数の風力発電機はこの鉄道の新景観になっている。"天山おろし"とでも呼ぼうか、4000mの巨大な山塊から吹きすさぶ季節の風が今は新しく電力として開発されている。

(写真 タクラマカン砂漠の風車)
風は宝物を運んだ。古くは絹であり、中世は香料であり、近世は金や銀だ。風は世界を動かした。モンゴルは東ヨーロッパまで版図を広げ、アジアの匂いをヨーロッパに吹き込んだ。逆にローマ帝国はヨーロッパの心をアジアに伝えた。いずれも風のなせる業である。仏教も風にのって、極東の日本へ伝来した。
シルクロードを吹き抜ける風に乗って多くの文化が東西を行き来した。チンギス・カーン、マルコ・ポーロ、玄奘三蔵は、思えば"風の旅人"だったのだ。
街角ごとに軍隊と特別警察、ウルムチはまだ緊張が続いていた。
8/19(水) ウルムチ
噂の通り、ウルムチは緊張していた。駅前にはピケが張られ、一般乗降客は駅前広場には入れない。周辺には機関銃を構えた軍隊が取り囲んでいる。

(写真 ウルムチ市街)
ホテルに向かう。街角には迷彩服の軍隊が整列しており、巡回警備しているようだ。黒服は地方から新疆に派遣された特別警察、青服の従来の警官と、三つのカラーがウルムチの中心街を警備する。
1カ月以上たった今も7月5日の事件の後遺症が残っている。
ご存じだと思うが、7月5日、広州で起きたウイグル人虐殺事件を政府が報道しなかったという理由で、ウルムチの新疆大学の学生たちが共産党本部前の広場に集まり、抗議した。それに対して政府が圧力をかけたため、ウイグル人が暴動を起こし、漢人が120人殺害されるという事件が起こった。その後、政府は軍隊の動員をかけ、2000人ウイグル人が虐殺され、さらに漢人の復讐行為ともいうべき暴動があり、ウイグル人80人が虐殺された、という一連の血なまぐさい事件が起こった(数字は不明瞭)。
政府は今も新疆(しんきょう)での国際通信を止めている。新疆へは電話もファックスもメールも閉ざされたままなのだ。
しかし、シルクロードの旅では新疆をパスするわけにはゆかない。幸い、通訳兼ガイドのBBさんがウルムチ在住なので、危険地帯は避けて取材しようということになった。
さて、ホテルに入ったら、ここも軍隊ばかり。BB氏によれば客室の3分の2は軍隊、特別警察が使っており、ホテル滞在の外国人はすべて監視されているとのことなのだ。
わずか2泊しただけだが、ここで小さな事件が起こった。インターネットの通信データカードを紛失したのだ。ネットは机上で使用するので、紛失するはずはないのだが、と不思議だった。
カシュガルに向かう列車のなかでBB氏にそのことを話したら、
「それは故意に誰かがやったんじゃないか?」
との意見。
「いやいや、ぼくの、不注意かもしれない」
と自己反省しつつ、大いなる謎は残ったのだった。
カザフと中国の国境で尋問のために連行された!
8/17(月)~8/19(水) アルマトイ~ウルムチ
タラズ、アルトマイ・・・。カザフスタンの歴史の街はいずれも緑豊かなオアシスの街だ。建物や公園、通りの名などにソヴィエト時代の郷愁があちこちに残っており、まるでロシアの田舎町に来たような印象を受ける。人々の言葉もロシア語である。
一方でこの国はソヴィエト時代の悪い面もそのまま引き継いでいるようだ。街角には軍人の像、公園には大砲の列。まるでかつての軍事国家を思わせる。警官や公務員が威張っているのも、旧ソ連そのままの体質だ。
(写真 アルマトイ駅)
中国、ウルムチへの列車に乗るため、アルトマイの駅へ。ここで駅やホームを撮影していたら、女性の公安がやってきて、「撮影禁止!」と怖い顔。「知らなかった。これからはやらない」と現場を立ち去り、駅前の公園に避難していたら、警官二人を同行してきて、ついに捕まってしまった。
「写真をみせろ!」
しかたなくデジタルを見せたら、
「消せ!」
駅とホーム、列車の写真をことごとく消さねばならぬ事態に陥った。
さらに深夜の国境越えでは、ぼくと立木カメラマン(堀さんとアルトマイで交代した)が呼び出され、審査室へ連行されることになったのだ。
車内のパスポート審査の時は、
「ツーリストです」
と一般観光客を装ったが、ぼくの大量の取材ノートにパソコン。立木カメラマンの機材の多さに、どうやらメディアだと疑われたようだった。
駅の付属の建物は薄暗く、刑務所のようだ。もうひとり連行されたロシア系の女性は顔を隠して泣き始めた。
――ウーム。これは事態かも?
と、座らされていたら、立木氏がまず呼び出される。
10分、20分経過。
長いのである。
すると、一人の係員が、英語で、
「悪く思わないでね。私たちも仕事なんだ。列車は大丈夫だから」
と、話しかけてくる。
ほどなく立木氏が戻って、ぼくは尋問なしで、無事、列車の人となった。ウルムチ事件のあと、中国政府は国際的に報道記者を警戒している。カザフスタンも隣国だから中国政府に協力しているのだろうか。アルトマイから列車でウルムチに入る日本人は珍しいから疑われたのだろう。
立木氏は、
「身元調査だけだった。通訳がいなくて手間どったが、自然派写真愛好家で通したら、相手は何も言わなかった」
深夜の連行、尋問の非常事態だったが、列車は大幅な遅れはなく緊張のウルムチ駅へ到着した。
これから国際電話、インターネットはすべて封じられている。
次に通信できるのは、新疆地区を離れた8月27日になるだろう。








