2010年2月
現地通貨の入手が大変! 日本円、クレジットカードは通用しない
8/15(土) タラズ
サマルカンドからタシケント、タシケントからタラズ、アルトマイへ。1日ずつの移動で、急がしい旅だ。タラズから国はカザフスタンに変わる。
なによりも困ったのが現地通貨だ。日ごとに国が変わるので、現地通貨も両替しなくてはならない。おまけにこのエリアは日本円がまったく通用しない。日本円が両替できるのは国営のメインバンクしかないのだ。日本を出る時、ドルとユーロに両替したが、メインは日本円でもってきた。日本円は世界各国で強いからである。
ところが中央アジアでは日本円はどこもがなじみがない。トルクメニスタンでは国営中央銀行までいって日本円を両替したが、相手が間違えて韓国ウォンとして換算されたこともあった。なんだか少ないので、気がついたからよかったものの、国の銀行だからと信用していたら大損するところだったのだ。ユーロはヨーロッパで使い果たし、ドルも次のメイン紙幣として使ってきたから、もはや日本円しか残っていない。
ジャンブール(タラズの駅)で降りた時、はっとしたのが現地通貨(テンゲル)が手元にないことだった。財布を見ると、ウズベキスタンのスムは残っているが、 ドルはたった3ドルしか残っていない。
タクシー運転手に事情を話し、3ドルと残りのスムを支払って、やっとホテルにたどりついた時は、日本円以外何もない。おまけに着いたのは土曜日の18時過ぎで、翌日は日曜日なのである。
ホテルにVISAカードのシールが貼ってあるのを見た時は、奇跡!か、と思えた。イラン、中央アジアではすべて(四つ星ホテルでも)現金決済。カードは一切使えなかったのだ。
さすがカザフスタン! 事情は違うのだろうか?
と安心したのもつかの間。

(写真 タラズの街角)
と、韓国系の美女のフロント係。
「銀行は日曜日がすべて休みです」
そこでVISAのATMが街中にあることをきき、日曜日の午前、奔走する。さいわいATMはほどなく見つかり、難をさけた、という具合。 列車の発車は午後1時。ぎりぎりセーフだった。
タラズは8世紀にアラビア軍と中国の唐軍が戦った歴史的なシルクロードの舞台だ。タラズ川で決戦があり、唐軍が大勝した。その時、紙の技術がアラビアへ、さらにヨーロッパに伝わったとされている。
その歴史の街で、紙(紙幣)に泣かされたのも、何かの縁なのだろう。
緊張の国境越えのはずが・・・
8/9(日) トルクメニスタン
いよいよトルクメニスタンに入国する。トルクメニスタンは中央アジアのなかでも特殊な国で、北朝鮮のようにグルバングリ・ベルディムハメドフ大統領がいわば独裁制をしいているため、外国人の入国を制限している。日本には大使館がなく、現地でビザを入手しないと入国できない。イラン~中央アジアはシルクロードのメインロードだが、この国があるためになかなか通り抜けが難しいのだ。ところが、この企画に協力いただいている旅行会社・トラベル世界では毎年バスによる西安~ローマのツアーを実施しており、トルクメニスタンのビザ入手のノウハウをもっていたのだ。そこで協力をお願いした。
日本から事前申請しておき、現地でビザを受け取る方法で、イラン国境近くのマシュハドへゆき、マシュハドからトルクメニスタンの国境へ。そこで約60ドル出して、正式なビザを受け取るのである。
イランとトルクメニスタンは地図上では鉄道が繋がっているが、貨物列車だけで旅客はない。現地でビザを受け取るには陸路でゆかねばならない。車とガイドをチャーターしての半日行程だった。
国境のパスポート審査は緊張した。なんせ今時分、日本人の個人旅行者などいないから不審がられるのは覚悟していた。近頃、麻薬密輸事件があり、警察との銃撃戦があったばかり。審査室は刑務所の独房のように閑散としている。 ところが椅子にふんぞりかえった出腹の審査員が「サムライ」、「ハラキリ」、「ショーグン」という日本語を知っており、ぼくの名が「SHIN(しん)」だということに興味を示し、「おしん!」「おしん!」と名を告げられて、握手され、思わぬ難関を突破したのであった。審査員が「おしん」の大ファンだったことが救いだった。

(写真 トルクメニスタンの市街)
駅にはモスクがあり、"お祈り停車"があった
8/3(月)~8/4(火) テヘラン~イスファハーン
テヘランからイスファハーンへの夜行列車。セカンドクラスだった。この旅行では基本的にファーストクラスを指定しているが、混雑して取れなかったり、ファーストクラスが列車についていない場合はやむなくセカンドクラスになった。
もともと鉄道運賃は格安で、ファーストクラスの料金がセカンドの1.5倍であっても、飛行機に比べたら格安なのだ。(この列車の場合、テヘラン~イスファハーン、380km普通寝台車がたったの600円だ)
さて寝台車の場合、ファーストはコンパートメントの4人部屋、セカンドは6人部屋だ。日本でも昔のブルートレインがそうだったように、中段ベッドがある。知らない人と夜をともにするのは、どうも気おくれがして、「空いていればいいのに」などと期待するのは無理。寝台車はどの国でも満員状態が普通である。

(写真 夜行列車のコンパートメント)
記者が好奇心丸出しで、パソコンを抱えて、上段ベッドから降りてきて、「そら、聴け」とばかりにペルシャ音楽の解説をはじめる。普通のおじさんは「夜食にどうだ」とナンを取り出す。GI青年は歌をうたいはじめる。酒がないのにまるで深夜の宴会である。あげくの果ては、鉄道警察がやってきて、ドアをたたき、
「静かにしろ!」と叱られる始末。
それでもジャパン・コールは鳴りやまず、深夜まで宴会は続いた。
浅い眠りで目覚めた午前5時30分、名もない駅で列車は停車した。乗客がぞろぞろと降りて行く。
なにごとか? 不思議に窓を覗き込むと、地方記者が、
「お祈り停車だ」
という。
駅には"Prayer's Hall"と書かれた、モスクふうの建物が付随している。駅名はない。きけば、夜明けと夕暮れ、列車はお祈り停車をするのだそうな。そうした「お祈り専門停車駅」がイラン各地にある。
停車時間は約30分。
お祈りが終わって、ゆっくりと列車は出発したが、イスファハーン着はちょうど27分の遅れだった。








