平成のマルコポーロ 芦原伸の「シルクロード鉄道紀」 トップに戻る

2010年1月

空手の先生がボディガードに

8/2(日) テヘラン

 テヘランは今回の「シルクロード・アドヴェンチャー」の行程のなかで、危険度の高い地域であった。日本を発ったのが7月15日だったが、その、直前にイランの大統領選挙があり、前任者のアフマディーネジャード氏が当選した。だが、選挙に不正があったとして、対抗馬のムサビ氏のシンパが抗議デモを繰り返し、ついには軍隊が出動して死者も出るという市街戦が繰り広げられていたのである。ムサビ派は民主派といわれ、背景にアメリカの後押しがあるといわれていた。結局は国家最高顧問のハーメイネイ師が現大統領を推して、反対派が鎮静された。テヘラン滞在はその直後のことだったのだ。

 さて、どうなることか? と内心ドキドキしていたが、駅に迎えにきてくれたガイドのアフマドさんに会ったら、いっぺんに不安は解消されてしまった。アフマドさんは身長190cm、重量級の大男で、日本語はぺらぺら。きけば日本に14年間暮らし、空手のインストラクターをやっていた、というのだ。今もテヘランで空手を教えている。

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(写真 テヘラン街角のチャイハナで水たばこを試す筆者)
「もう大丈夫ですよ。街はいつもと変わりませんよ」

その一言で、緊張が一瞬にしてほぐれた。

 イランはイスラーム世界のなかでも規律のもっとも厳しい シーア派の拠点 である。飲酒は禁止されているし、写真撮影なども規制されている。市街戦の直後だし、テヘランでは行動をひかえ、終日ホテルにこもり、休日にしよう、と思っていたのだが、アフマドさんの力強い協力で、また町や駅へと繰り出した。雑踏や群衆のなかでひときわ目立つアフマドさんの存在が神の救いのように思えたのだった。

トランス・アジア・エクスプレス

 7/29(水)~8/2(日) イスタンブール~テヘラン

 今回の「シルクロード・アドヴェンチャー」で一番悩んだのはルート作りである。トルコから中央アジアに入るには二つのルートがある。一つはトルコからロシアをぬける北上ルート、二つ目はイランをぬける東進ルートだ。北上ルートはシルクロードのいわゆる"草原の道"でカザフスタンに繋がっている。東進ルートは駱駝商隊(キャラバン)の道で、一般的なシルクロードだ。

 北上ルートには問題があった。トルコと隣国のアルメニアは鉄道が繋がっているが、国交が断絶しており現在は閉鎖されている。グルジア、アゼルバイジャンへと迂回もできるが、そうなると政治紛争の絶えないチェチェンを通らねばならない。
 東進ルートはというと、イランへは入れるが、トルクメニスタンがネックである。トルクメニスタンはご存じの方もあるかと思うが、"中央アジアの北朝鮮"といわれるような軍事独裁体制を敷いている。日本にも大使館はなく、個人旅行での入国は極めて困難で、現地でビザをとらねばならない。準備段階でも国境は閉ざされていた。

 

20090729_0802_istanbul_to_teheran.jpgところが出発直前に、運よく「国境が開かれた!」という朗報が飛び込んだ。ルート的にはこちらがオーソドックスなシルクロードなので、現地でのビザ入手可能情報を得て、このルートに決定した。
 イスタンブール~テヘランへは週一便「トランス・アジア・エクスプレス」なる国際列車が走っている。走行距離は約3000km。3泊4日の長大旅行だ。

 イスタンブールを7月29日(水)の夕刻に出て、アナトリア高原を横断し、ワン湖をフェリーで渡り、イランへ入国。タブリスを経てテヘランへ。テヘランに着くのは8月1日(土)の夕刻の予定だ。
 
 さて、どんな列車なのだろうか?どんな旅だったのだろうか? 詳細は本誌掲載を読んでいただくとして、結果だけお伝えしておこう。

 なんと、この列車、テヘランに着いたのは8月2日(日)の午前6時。実に12時間遅れ!で、ついに4泊5日の列車旅となったのである。日本では絶対ありえないよね?やはりここシルクロードには、悠久の時がゆったりと流れているのであった。

イスタンブールの街をムスリムと歩いた

7/28(木) イスタンブール

 ラマダン(断食月)が近い。今年は8月20日頃から1カ月がラマダンになるようだ。イスタンブールのガイドのエリキンさんは熱心なムスリム(イスラム教徒)で、毎回のお祈りを欠かさない。ガイドの途中でも「昼のお祈りに行ってきます」とか言って、消えてしまう。
20090728_istanbul.jpgどうやら近くのモスクにゆくようである。全トルコにモスクは70,000あるという。
 ビザンチン帝国が崩壊して以来、イスタンブールは
回教徒の街になった。キリスト教の聖堂も改修されて、今は皆モスクになっている。

 朝はアザーン(祈りの呼びかけ)ではじまり、夕方はふたたびアザーンの声をきいて一日が終わる。ゆるゆると立ち昇るようなアザーンの声がするたびにエリキンさんは忙しい。
 お祈りは一日5回。日の出、昼2回、日没、夜と、30分から1時間くらいかけて、アッラーの神にひざまずく。アッラーはすべて支配しており、人の生き方や寿命も決めている。生きるも死ぬもすべては「アッラーのおぼし召し」なのだ。天国にゆくために人は善行を施す。アッラーのためには命さえ惜しまない。戦死すれば、天国行きは保障されている。

 エリキンさんと二、三日、付き合ったが、彼の立ち回りを見ていると、生き方よりも死に方を考えているようで、死ぬ前にどれだけの善行をなしとげられるかが、一番のテーマのようだ。

 「ボーナスを貯めるのと同じです。一日少しずつ貯めておけば、アッラーはちゃんと見てくれている」

 善行とはお祈りを欠かさないこと、コーランの教えを守ることで、美食や趣味の楽しみとは無縁である。
 清廉潔白、無欲恬淡な人か、と思っていたら、請求書には、使っていない車代、覚えのない飲食代、交通費の上乗せなどが入っていた。

 どうやらアッラーは異教徒からは利用できるだけ、しぼり取れ、と教えているようである。イスラーム主義となかなか世界が協調できないのは、こうした背景があるのかもしれない。

バルカン急行

 7/26(日) ソフィア~イスタンブール

 ソフィアからイスタンブールへ向かう。「バルカン・エクスプレス」という名の国際列車だ。その名はいいが、実は車体はもはやくたびれて、ヨーロッパ鉄道の"化石"と言ってもおかしくない。 
乗客はバックパッカーや帰郷する出稼ぎのトルコ人が多く、半分、"難民列車"と化している。
 
 実は1989年の「東欧革命」の取材の折、この列車に乗ったことがあった。あの時はソフィアからベオグラードへの逆方向だった。トルコ人の出稼ぎの男たちとコンパートメントで一緒になり、さんざんウォッカを飲まされて参ったことがある。コンパートメントは男たちの汗、たばこと酒の匂いに包まれて、生き地獄のようだった。

 日本にも"出稼ぎ急行"といわれた列車があった。急行「津軽」で、奥羽線経由で上野と青森を結んでいた。多くの出稼ぎ労働者が乗り、荷物の山に囲まれて、日本酒が回ってきた。昭和40年代の高度成長期の、昔の話だ。

 さて、われらが「バルカン急行」は19時55分、

20090726_sofia_to_istanbul.jpg定刻より45分遅れて出発した。午後8時近くといえども、こちらの夏はまだまだ夕暮れにもならない。たそがれてくるのは9時過ぎてからだ。西の国々だから日の暮れが遅いのである。ようやく眠りについた23時30分頃、突然のノックで飛び起きる。ドミトリグラード駅、国境越えのパスポートコントロールで、ボーダーポリスが乗り込んでくる。顔とパスポートをチェックして終わった。ここでブルガリアとはおさらばだ。

 今度は、本当に寝入った深夜の1時20分、ふたたび部屋をノックされて飛び起きる。トルコの入国審査である。乗客は全員駅に降ろされ、長い列を作って窓口に並ぶ。30分、1時間と平気で時は経ってゆく。車両に戻ったら、今度は全員が乗っているか、の再チェックがはじまった。検察官が一人一人のパスポートの入国スタンプをもう一度確認してゆく。

 列車での国境越えは短くて1時間、長くて3時間以上かかる。バルカン急行が国境駅のKAPUKULEを出たのは、午前4時5分! ほとんど全員が不眠のまま、イスタンブールの朝を迎えるのであった。

ソフィアの通訳ガイド、シルヴィアさんに大感謝!

7/24(金) ソフィア

 ソフィアはまだ昔の東欧の気風が残る古き、良き街である。通訳ガイドのシルヴィア・ポポヴァさんとそんな郷愁の街を歩いた。
 
 20090724_sofia.jpg街の中心に温泉があった。ローマ帝国が侵入し、続いてオスマントルコの長い支配の続いた街だ。両民族の大好きだった「温泉」は今も健在である。温泉は市中の広場に設備があり、蛇口からどんどんお湯が流れ出している。市民はそれを飲んだり、ペットボトルに入れてもち帰ったりしている。
 

 つまり、飲泉なのだ。きけば肝臓によく、お茶やハーブティーを作るとおいしいそうだ。さっそく飲んでみると、味はなく、癖もなく、日本でいえば炭酸泉というところ。街のどこでも売られているミネラルウォーターの名も「BANKIA」という名で、温泉水という意味だった。

  街の中央に食糧品店が店を出す「ツェントラルニ・ハリ」なるバザールへ行った。100年続くという歴史的建造物は、見事なもの! バザールというよりもデパートの元祖のような雰囲気だった。

そこで事件は起こった! 一度あることは二度あるものなのだ。

 バザールの入口が混雑しており、なかなか前へ進まない。なにかスカーフのようなものがヒラヒラと腕にまとわりつくので、気になって、後ろを振り返ると、スカーフの下にぼくのバッグがあり、そのなかになんと手が入り込み、ぼくの財布を握っているではないか!
「あ! 悪魔の手だ」
――そう思った瞬間、女の手をつかんだが、女は手を握られたまま、財布を離さない!
「泥棒だ!」
 思わず叫んだ時、先に行っていたシルヴィアさんが矢のような速さで、戻ってくるやいなや、女の手にかみついた! 
「ギャー!」
女は財布を手から離し、シルヴィアさんと絡みあう。やがて警官がかけつけ、大騒ぎになったが、犯人の女はもう逃げ去っていた。

 あやういところだった。ローマのスリは芸術的だったが、こちらのスリは劇画調だ。調べによると相手は三人組のジプシー。一人の男がぼくの前におり、入口をふさぐ。二人目の女がスカーフをぼくのバッグにたらす。そして三人目の直接犯がバッグから財布を抜き取る、という寸法だ。
 ソフィアにジプシーは古来より住んでおり、定住者はおとなしいが、"流れジプシー"には犯罪者が多いという。
 シルヴィアさんは、
「かみつくなんて、咄嗟にやったことで、こんなことはじめて!」
と、息を荒立てた。
 シルヴィアさんに大感謝!「客を守る」というガイドのお手本のような人だった。カメラを手に、メモをしながら、というぼくの動向を見て、犯人らは最初から計画した。「安全は戦って守る」というヨーロッパ人のエスプリを教えられた事件だった。

難民列車の旅

7/23(木) べオグラード発ソフィア行き

 ベオグラードからソフィアへは491列車に乗った。ベオグラードを朝の7時50分に出て、ソフィアへは夕方の5時40分に着く。418kmを10時間かけて走る国際列車だ。トーマス・クックの時刻表にも出ているので、優等列車だと思い、ファーストクラスのコンパートメントのチケットを入手していた。

 ところが乗ってみれば、6人掛けのコンパートメントで、満室状態。しかも両隣を見ても、決して品格の正しい紳士、淑女には思えない人々(失礼!)で、ぼくの席にはすでに荷物を抱えた失業者ふうのくたびれた男が座っている。

 

20090723_beograd_to_sofia.jpgきっぷを見せると、「そうか、悪かったな」というような仕草で素直に席をゆずってくれたまではよかったが、今度は車掌が検札にきて、「ソフィア行きかい? このきっぷは違うよ。前の車両だ」と席替えを強制されてしまった。号車と席番を確かめたのに、何だかおかしい、と思いながら、しぶしぶ車両を移ったが、こんどは移った車両の車掌が「このチケットの席はない」という。

 一体どうなっているのだろう? 聞けばこの列車、3層建てで6両編成のうち、2両がソフィア行き、2両はイスタンブール行き、さらに2両はマケドニアのテッサロニキ(THESSALONIKI)行きだという。それでそれぞれの国の車掌が乗っているというワケだ。どうやらぼくが乗ったのは乗客の風体からしてマケドニア行きだったらしい。

 ところがソフィア行きの2両はセカンドクラスのシート座席車と寝台車の2両しかなく、ファーストクラスのコンパートメントはない! とのこと。「どちらにするかね?」ときかれて、「寝台車の方」と言ったら、10ユーロの割増料金をとられてしまった。国際列車には違いないが、各駅停車並みに止まり、次から次へと荷物を抱えた人々が乗ってきて、ギュ―詰め。人と荷物の山で、まるで"難民列車"のごとくであった。

 各国の混成列車だから食堂車はなく、車内販売もなく、途中の停車駅でポテトチップスと水を買い、ひもじい思いで10時間を乗り通したのであった。本当に「クルシロード」の列車旅だった。

銭湯を体験したい、とガイドに行ったら、トロリー・バスに乗せられた

 7/22(水)ベオグラード

 今回のシルクロード・アドヴェンチャー「鉄道見聞録」の目的は、ローマから奈良まで、ひたすら鉄路をたどることにあるが、それぞれの街でシルクロードの残影を追体験することをテーマにしている。

20090722_beograd_1.jpg すなわち、1つはバザール(露店市場)、2つ目は麺、3つ目は風呂(銭湯)である。バザールはおそらく西アジアや中央アジアで自然発生したものが、東は日本へ、西はローマへとつながったものだろう。麺はマルコ・ポーロが中国からイタリアに持ち帰ったものがスパゲッティとなったという定説があるが、果たしてどうだろうか? 西から東への旅で、麺を追うというのもこの企画の大いなる目玉なのである。3つ目の風呂、すなわち温泉や銭湯はどうなのだろうか?

  ローマ人はもとより、風呂好きで、占領した各地で温泉を見つけ、温泉場を開発している。トルコ人もトルコ風呂なる蒸気風呂が有名で、一時は日本でも風俗産業として花街を潤したこともある。というわけで各地の温泉や銭湯に入ってこよう、と思っていたのだが、ローマ、ヴェネチアには遺跡はあっても、実際に入れる共同風呂はもはやなかった。ここベオグラードはいかに?とガイドのトミチ氏に問うと、
「あるよ。いつでも体験できるよ」
 との気軽な返答。では市内観光の後に、ぜひ連れて行って、と頼むと、
「いいよ。もちろんさ」

 さて、セルビア正教の教会や城塞跡、モスク、バザールなど見て歩くと、夕方になってきた。
「風呂は? ぜひ体験したいのだが」
 と釘をさすと、
「最後にしよう。ホテルに帰るのも便利だから」
 と、ついに日は暮れ、ガイドとの契約時間が迫ってきた。
 共同風呂は言葉も分らぬ旅人がひとりで簡単に体験できるものではない。トミチ氏が一緒に来てくれなければ、やはり気おくれしてしまう。
「さあ、君の念願がこれで叶うよ」
 
 と、登場したのは、なんとトロリー・バス!!

 ぼくの言った『パブリック・バス』を、トミチ氏は『トロリー・バス』のことと勘違いしていたのだ。BATHとBUSの発音違い!この辺がぼくのブロークン・イングリッシュの限界なのだ。

20090722_beograd_2.jpgそもそもバスのことを話した時、

 「タオルとか必要ないか?」
ときいたら、
「なにもいらないよ」
との返事だった。その時、「温泉なのか?」くらい、聞いておけばよかったのだ。
「このバスに乗ればホテルの前に行くから、そこで降りればいい」
そこで、目的は「共同風呂」のことだった、と言ったら、
「今は皆シャワーだからもうないよ。ホテルの裏にフィットネスクラブがあるから、
ジャグジーがあるかもしれない」
 というオチなのだ。
  バスの運転手はぼくらのやりとりを聞いてか、聞かずか、
「乗車代はいいよ」
 トミチ氏は運転手に、
「アリガトウ」
 と日本語で返した。
 
 まあ、共同風呂に入りたい、という外人観光客はいないだろうから、トミチ氏の勘違いはバス代タダで、許してあげよう。

カレーの匂いに誘われて

7/19(日)ヴェネチア

 ヴェネチアは世界中からの観光客でいっぱいだった。迷路のようにくねる路地をゾロゾロと観光客がゆく。道の両側にはカフェテラスやレストランがテーブルを出し、街中が露店市場という感じである。
ヨーロッパ系、アジア系、アラブ系と観光客も国際的で、英語、フランス語、中国語など、さまざまな言葉が飛び交っている。人口が約28万人という小さな街に、年間2100万人以上のツーリストが訪れるという。押し寄せる人の体重で地盤沈下が起こっているのではないか、とも思えるくらいだ。


 ふと観光客の足が途絶えた。とある裏小路から懐かしい匂いが漂ってきた。うふふ、カレーの匂いだ。

20090719_venezia.jpg 匂いの主は「EURO FOODS」という小さなテイクアウト・ショップだった。店の前にはテーブルがひとつだけ置いてある。                                 
「カレーライスあるの?」
ときくと、30歳くらいの若い店主が、にこにこ笑って、
「チキン・カレー、うまいよ」
と勧める。
「しめた!」イタリアに入って以来、"イタ飯"続きで、実は飽き飽きしていたのだ。スパゲッティもピッツアもおいしいが、毎日食べていると、さすがにうんざりしてしまう。

 気温は33度!猛暑のなかを歩いてきた。
 ここでカレーを食べてみよう。

 亭主のエメル・ラフマン君(32歳)はバングラディシュの人。故国から身ひとつで出てきて、
ヴェネチアのヒルトンホテルで7年修業し、この春ようやくここに店をもった。バングラの星である。
「日本には祖国を助けてもらっている。一番いい国だ」
リップサービスも怠りない。人通りは少ないが、家賃は安く、市場からも近いという。
「この街はいいところだよ。差別がないし、皆優しくしてくれる」
奥さんも故国から呼んで、今は一緒に働いている。黒髪で肌の艶やかなアジア美人だ。
 
 チキンカレーが4.0ユーロ、ライスが3.5ユーロ。ヴェネチアは店で食べるとピッツアが12ユーロ以上する観光地だから、安くて、うまくて、栄養バランスもこの上ない。

 懐かしい匂いに包まれて、ヴェネチアの昼餉を楽しんだ。

ヴェネチア

 いよいよ「平成シルクロード」の長旅がはじまった。
20090721_venezia.jpgローマから東へ、最初の街はヴェネチアである。
もともと独立した港湾都市国家として発達した
ヴェネツィアは、中世に最盛期を迎え、
"海のシルクロード"の大舞台だった。
ペルシャ、アラブと密接な関係をもち、
絹、香辛料、金、銀などの貿易で栄えたところだ。
一方、ここは中世より情報都市であり、
アドリア海を行き来するダウ船が情報機関だった。

 ところで現代の情報機関はインターネットである。今回の旅ではモバイルパソコンを携行していたが、はたしてヴェネチアのホテルでの通信は最悪だった。
 ローマでも同じだったが、各ホテルはプロバイダと契約しており、宿泊者は、個人的にプロバイダと24時間とか、2日間、3日間の時間単位で契約し、クレジットカードで支払うことになっている。その契約の手間が実に複雑なのである。

 ローマではテルミニ駅に近いホテルに泊まっていたが、ここでは「SWISS.COM」。ヴェネチアのホテルは「vodafone」と契約せねばならならなかった。ローマのホテルでは、イタリア語が分からず、フロント係に頼み込み、一緒に登録作業をしてもらい事なきをえたが、ヴェネチアの古風なホテルでは従業員も年配者が多く、パソコンが分かるものがいない。ぼくもパソコン音痴世代である。一応係だというおじさんが手伝ってくれても、あちらも日本語が分からないから、画面を眺めながら、あちこち触って、分らない者同士でラチがあかない。パソコンで時々のホットなスポットコラムを送る約束を編集部としてきたから、ストレスは増す一方だ。
 二人がかりで、2時間以上かけて、狭い部屋でやりとりし、やっと登録にこぎつけたが、今度はカード会社から拒否された。ローマで盗難に合い、翌日発行してくれた国際的なカード(Amex)だったが(VISAは東京でしか再発行できない)、インターネットのプロバイダ利用契約までの対応は即日ではできなかったのかもしれない。発行元の東京のカード会社に問い合わせると、深夜にもかかわらず「そんなはずはない」と現地に問い合わせてくれ、現地の会社からホテルにまで問い合わせがあり、またまた係のおじさんが部屋に登場することになった。しかし、おじさんがやっても、やはり駄目だった。カード会社の24時間体制ぶり、すぐさまのサービス対応には感服するばかりだが、しかし、結果的にはつながらない。

 ならば翌朝、近くのカフェでモバイルに切り替えて試したが、国際的に対応できるはずのEMOBILEもここでは「圏外」で役に立たず。街のあちこちにある、インターネット・カフェでモバイルを持ち込んで試したが、ここでも駄目だった。パソコンはなかなか手ごわいのである。

 ところが国が変わり、セルビアのベオグラードに入り、アメリカ系のホテル、ベストウエスタンホテルの部屋からは、たちまちのうちに高速度でインターネットに接続できた。このホテルはデータポートが全室付きで、個人でのプロバイダ契約の必要がなかったのだ。

 奢るな、ヴェネチアよ! かつては情報都市だったヴェネチアだが、今は観光客だけを相手にして、古(いにしえ)の栄華の夢に眠っている。かねてから地盤沈下が噂される街だが、情報基地としては、もはや沈んだままである。

 ついでにモバイルパソコンの用意を伝えておくと、今回ぼくは本体のほかに、EMOBILEのデータ通信カード(各通信会社で利用できる国が限られているので要注意)を携行した。忘れていけないのは変圧器とソケットで、ホテルには日本製品に対応するソケットはほとんど置いていないので、持参することをお忘れなきよう。ついでにクレジットカードも国際的に通用するものが必携だ。 オワリ

ヴェネチアへ

ローマ/7/16(木)
ナポリ/7/17(金)
ベオグラード/7/21(火)

20090718_eurostar_in_s.jpgヴェネチアへ/7/18(土)
 ローマからヴェネチアへはユーロスターの特急で行った。いよいよシルクロード特急の第1弾である。
 ローマ、テルミニ駅、4番線。ユーロスターは流線形のスマ--トなデザインだ。ファーストクラス2両、セカンドクラス5両の7両編成。ファーストクラスは、日本でいえばグリーン車だ。ところがこちらのファーストクラスはゆったりしており、向かい合わせの4人席の間には広々としたテーブルがある。本を広げて、読書もできるし、パソコンも十分に使える余裕がある。窓側も、ゆとりある空間のひとり座席だ。各車両の中央部にはスーツケースなどの大きな荷物が置ける荷物棚もある。
 車掌にきくと、定員はファーストクラス130人、セカンドクラス370人の合計500人。ローマ〜ヴェネチア(507km)を4時間27分で結んでいる。最高時速は300km。新幹線にはおよばないが、途中のボローニアから在来線となるため、急にスピードは落ちてしまう。
 イタリアの特急はIC(インターシティ)、ES(ユーロスター)、AV(アルタ・ベロチカ)などが有名だ。ICはヨーロッパ都市間を結ぶ昔ながらの国際特急、ESはローマを中心にヴェネチア、ナポリなどの都市間を走る特急で、AVはローマ〜ミラノ間の高架鉄道で、日本でいえば新幹線に相当する。新線も在来線も同じ標準軌道(1435mm)なので、今回乗ったユーロスターはボローニアまでは高架で走り、ボローニアから在来線となり、ローカル線並みの速度になるのだった。
 さて、車窓にはのどかな農村風景が広がり、オレンジ色の農家の屋根が夏の光を浴びて輝く。列車は映画「旅情」でキャサリン・へプバーンが涙を流して別れを告げるヴェネチア、サンタルチア駅をめざすのだが、旅の話は本編でたっぷり語りたく思う。

ナポリのサンタルチア海岸、その地中海に面したレストランにいる。

20090717_napoli.jpgのサムネール画像7/17(金)ナポリ

 キムタクが有名にしたという「Lacryma Christi(キリストの涙)」なる白ワインを飲み、真っ青な海、空に浮かぶ夏のちぎれ雲を眺める。37度の猛暑だが、日陰にいると、潮風が心地よい。まるで「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンのような気分になっている(古いか?!)。
 
 ローマが東京とすれば、ここには大阪のような自由さがある。洗濯物を国旗のように並べて道路に干す下町の女たち、狭い道路では、車の窓から顔を突き出し、クラクションを鳴らす男たちがあふれる......人の匂いが濃い街である。人の物語がはじまる街だ。
 ナポリといえばシーフード。フォークに「カラマール」新鮮な"烏賊"、「ガンべローネ」と言いつつ、ゆでたての"海老"を味わう。おっと、それは「オラータ」と"黒鯛"を炭火で焼いてもらう。などとダジャレを楽しみながら、ここでは時がゆったりと流れてゆく。

 海外取材で嬉しいのはランチタイムが長いことだ。東京ではざるそば一杯で済ませてしまうが、ここではそうはいかない。
ついでに覚えたばかりのイタリア語を伝授すると、ツナミ(津波)、カミカゼ(テロリストが突入すること)。カラオケもまだまだ健在のようだ。デザートはBaba(ババ)をいただく。キャラメル味のスポンジにラム酒をたらしたもので、伝統的な南イタリアのデザートだそうな。

 さて、本命の取材はナポリに「スパゲッティ・ナポリターナ」が存在するかどうか?なのだ。通説ではスパゲッティ・ナポリターナは日本の横浜で作られたもので、本場のナポリには存在しないというが、、、さて、その真相はいかに?
 来年からはじまる本誌「シルクロード・アドベンチャー」で詳細を報告するから、気長に待っていてほしい! ではまた、チャオ!

旅のプロもやられた!ローマのスリにご用心

7/16(木)

 「全シルクロード街道」、ローマから奈良への取材の初日だった。東京からローマに入り、ヴァチカン、アッピア街道などの撮影を終え、翌日のナポリへの列車の指定席を購入し、充実した1日の終わりを迎えていた。ローマの玄関口の中央駅、テルミニに近い路上のことだった。人混みの中で、ポケットがふと気になった。瞬間のことである。気がつくと財布がない!まさか!と思った。駅前のJTBで支払ったばかりだった。300mも歩いていない。呆然として訳が分からなかった。いきなり理由もなく路上で刺された気分である。

 その夜、ローマ在住17年という通訳の村瀬仁美さんとカメラマンの堀さんと三人で食事をした。そこで「ローマでは最近スリが横行している」との話を聞いていた。世界的な不況のなかで、東欧や南米から出稼ぎの男たちが多く集まっている。中には置き引きやスリでやむなく暮らしている男たちもいるようだ。最近はペルー人の天才的、芸術的スリが話題になっており、まったく人に気付かせないという。村瀬さんも一瞬の間に時計とブレスレットを抜き取られた、という離れ業の被害者の一人だった。
 
 というわけで、旅の最初の報告から情ない話になってしまった。思い出せば、ローマでは大の男が首からポシェットを吊して、街を歩いている。少年兵のように肩から十字にバッグを下げている女性も多い。ポケットは一番狙われるとか!
 そこで、反省!20090716_rome.jpg
1、日本人は狙われていることを自覚すること!
2、駅構内、駅前は危険ゾーンだから要注意!
 3、持ち物は一つにまとめ、目から離さない!

 というわけで、さっそく「首吊し袋」を購入し、ローマ人に習ったのである。
「郷に入っては、郷に従え!(when in Rome, do as the Romans do!)」
これローマのコトワザじゃなかったかしらん?