平成のマルコポーロ 芦原伸の「シルクロード見聞録」

本誌で堂々連載中

法隆寺、夢殿は大モンゴル帝国の遺産だった?!

9/15(火) 奈良

 とうとう奈良に着いた。博多から京都まで660km、新幹線でわずか2時間50分。京都駅から奈良へは近鉄特急で30分の速さだ。さすが「鉄道王国・日本」である。この距離を移動するのに海外ならば夜行列車で一晩はかかるだろう。時速300km、分刻みで運行する日本の高速鉄道は世界の最先端をいっている。この素晴らしい新幹線システムを中国や中央アジア、イラン、トルコに輸出すればどうだろうか? もし新幹線がシルクロードを横断すれば、わずか66時間で京都とローマを結ぶことになる。車やバイクの日本名はすでに知られているが、鉄道の日本はまだ多くは知られていない。円高不況の特効薬になるのではないか? ただし、日本人のように几帳面で、気の細かな人材が彼地にいるか、どうかが問題だろう。一人の人間が一つのことしかできない(やらない?)彼地では、せっかく新幹線を輸出しても運営が難しいかもしれない。いっそのこと退職したJRのOBを同時に"輸出"すればいいかもしれない。日本人の寿命は世界一といわれているから、退職後も10年くらいは十分に働けるだろう。

 さて、東大寺、薬師寺、唐招提寺、法隆寺と、"奈良には古き仏たち"を見に行った。日本の仏たちの素晴らしさに改めて感動した。表情や仕草、衣装のデザインなど、今の中国や韓国に残る仏像と比較したら、はるかに優れている。中国、韓国の仏像が玩具としたら、日本の仏はみな芸術品である。もちろん中国は文革で多くの仏像が破壊されたが、それをおいても日本の仏像は傑出している。当初は百済から仏師が渡り、仏像作りを伝えたという。その技法を習得して、日本独自の仏像は作られた。
 思えば、奈良は日本で最初の国際都市だった。大陸文化がもたらされ、建築や音楽、文学が花咲いた。壁画に描かれた飛天や鐘楼の唐草模様など多くの古寺にはシルクロードの面影が色濃く残っている。

 

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法隆寺の夢殿を訪れて、懐かしい風景だ、と思った。八角形の吹き抜けの建物は北京の天壇と似ているではないか。天壇は元時代に北京で作られた宮殿で、その形は巨大なゲル(モンゴル人のテント)に似ている。夢殿という名も元の代々の王が天空を望み、夢見たという天壇に通う創意があるではないか。
 
 かつて江上波夫氏の「騎馬民族王朝征服説」が話題を呼んだ。大和朝廷を作ったのは、旧満州(中国東北部)にいた騎馬民族で、5世紀に大阪平野に進出し、大和盆地の豪族と共同して大和朝廷を作ったという説である。江上氏によれば、5世紀頃の日本では大きな変化があり、ズボンの着用や墳墓、装飾など遊牧民族の文化が突如現れたとしている。聖徳太子の肖像は騎馬民族系の顔だ、という説もある。とすれば、夢殿もまた、天空をも支配しようとした大モンゴル帝国の遺産だったのかもしれない。

博多では『古代通商の道』が復活していた

 9/13(日) 博多

 9月13日(日)、ついに博多に上陸した。

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(写真 JR九州の高速艇「ビートル」) 
 釜山港からJR九州の高速艇「ビートル」で わずか2時間55分だった。右手に対馬の山並を見ながら日本海を渡ると、高速艇はほどなく玄界灘に進入した。驚いたことに、このビートル号、釜山から博多へ15分おきに就航している。まるで新幹線並みのダイヤだ(もっとも週末だけのようだが)。
 韓国と日本の近さを思い知った。東京にいると、この距離感がなかなか実感できないでいる。

 博多では翌日太宰府へ行った。太宰府旧庁は大陸からやってきた人々を歓待した日本の窓口で、古代の鹿鳴館のようなものだった。今は跡地が残されているだけで、広大な敷地跡は草野原となっていた。一方、太宰府天満宮は観光客で賑わっていたが、ここでもハングルと韓国語が花盛りだった。
 韓人と和人が入り混じり、容姿や風貌では国籍が判明できない。古代九州はかような"人間風景"だったのだろう。海浜に漁(すなど)りをして暮らす人々にとって、海はひとつなのだ。獲物はその日の漁場に近い港へおろしたのではなかったか? 古代の日本海には、歴然とした国境などなかったはずだ。
 鳩山新内閣が発足して、アジア重視路線が引かれようとしている。これに対し、韓国の李明博大統領は歓迎の意を表し、「天皇陛下のご訪韓」を期待している、と声明を発表した。来年2010年が日韓併合(1910年)からちょうど100年の節目に当たるからだ。李大統領は「ご訪韓が実現すれば、両国間の距離感に終止符を打つ契機になる」と断言している。
 李大統領の言下には韓国人の日本人に対する歴史の大きな傷心が込められている。ひとつは秀吉の慶長・文禄の役で、豊臣軍は漢城(ソウル)を攻め落とし、その時、韓国の文化財の多くを破壊した。そして近年の旧日本軍による韓国の植民地化である。
 
 ふと、ソウルのガイド、林(イム)さんの言葉を思い出した。
「韓国5000年の歴史からすれば、日本の侵略はたかだか100年にも及びません。歴史のいたずらのようなもので、今の韓国の人々はもうそのことは忘れ、むしろ日本人を歓迎しています」
 2000年の歴史しかもたない日本人は頭を垂れるより、仕方がないのであった。

稲田のなかに立つ、古代シルクロードの異国人

 9/11(金) 慶州

 慶州(ギョンギュ)まで来た。
 長かったシルクロードの旅もいよいよ最後の地となった。明日は慶州からセマウル号に乗り、釜山へ。釜山から博多まではJR九州のビートル号(水中翼船)でわずか3時間のみちのりだ。
 慶州は新羅(しらぎ)の都で、仏都として韓国のなかでも一番多く寺社が残っている。李氏朝鮮が仏教を廃し、儒教を取り入れて以来、多くの寺は放置され、仏僧は山野に隠遁した。そんなわけで韓国には仏教遺跡は多くはないが、ここ慶州だけは例外である。

 実はこのシルクロード紀行を計画する時、扶余(プヨ)にするか慶州にするか、大いに迷った。扶余は百済(くだら)の都であり、日本との関わりが一番深い国だ。百済が新羅に攻められた時、日本は百済を助けようと出陣もしている。唐と組んだ新羅の勢力は強く、日本は簡単に敗北してしまうが(白村江の戦い)、以後、百済の亡命者を受け入れて、日本に仏教美術がもたらされたという由縁がある。
 奈良という言葉も韓国語の「ナラ=国」からきている、という説もある。しかし、日本への帰国の経路を思うと、ソウルから一気に南下したい、という気持ちと以前見た韓屋の瓦屋根の印象が強く、慶州を選んだのだった。 

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(写真 慶州の古墳「掛陵」)
 さて、慶州でシルクロードの痕跡は見つかるだろうか?
 
  そんな心配を払拭してくれたのは女性ガイドのキム(金)さんだった。
 釜山から駆けつけてくれたキムさんが連れて行ってくれたのは、「掛陵」といわれる、38代元聖王(785?798)の古墳だった。今は人里離れた古墳公園となっており、小学生の子供たちが遊んでいたが、その古墳の前に並ぶ二つの石像が西南アジアの人(ペルシャ人かアラビア人)だったのだ。王の墓を守るために漢人や狛犬と並んで建てられた異国人の風貌はまさに古代シルクロードの顔であった。
 古墳の空にはアキアカネが舞い、林ではツクツクボウシが鳴いていた。
周囲には緑の稲田が広がり、小川にはメダカが泳ぐ。

懐かしい日本のような風景のなかに、シルクロードが息づいていた。

韓国で発見した、シルクロードの足跡

9/8(火) ソウル

 韓国のシルクロードというと、ちょっとピンとこないかも知れないが、中国から大陸を伝い、朝鮮半島へ文化が伝達し、日本海を越えて、九州や大和に到達した事実は必ずあるはずで、そこここに西域の文化の足跡が残されているはずだ。
 実際、仏教の日本への伝来は百済の聖明王が日本の大和朝廷へ伝えた、ということは教科書で学んでいる。
 
 ところが、ソウルでお願いした女性ガイドのイム(林)さんは、
「シルクロードねえ。ソウルの歴史は新しいから、あまりピンとこないです」
 ダメもとでもいいから、と世界遺産になっている皇帝の離宮、昌徳宮へとりあえず向かった。

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(写真 昌徳宮の屋根瓦)
 自然と調和したいという皇帝のポリシーで作られたという離宮は、ソウル市内にありながら、まるで山野にあるごとく緑のなかに包まれていた。池にはムギワラトンボが飛び、林では蝉が鳴く。
 荘厳な離宮の門や館は緑、赤の極彩色でいろどられ、日光東照宮の華麗さを思い出させた。
 ふと、屋根瓦を見ると、小動物が並んでいる。魔除けに置かれたものだというが、そのモデルは西遊記の玄奘三蔵と孫悟空、猪八戒らだと聞いて、思わず、叫んだ。
「シルクロードがここにあるじゃないですか?」
 イムさんは、
「そういえば、そうですね」

 次には、仏教がソウルにはじめて伝来したという、円覚寺跡へ行った。ここは抗日デモのあった広場で、今は公園となり、仏教よりも三一運動の発祥地としてしられている。果たして、そこにも、十層の石塔があり、その側面には数々の仏の像とともにラクダの姿が描かれているのであった。
「本当? あれラクダですね。今まで知らなかった!」
 イムさんもたじたじである。
仏教とともに、さらには麺も伝来しているはずである。ちょうどお昼になったので、ぼくはイムさんに、
 
 韓国の伝統的な麺を食べたい、と頼んだ。韓国の麺というと、冷麺しかぼくは知らない。冷麺の麺は小麦じゃないから、中国古来の麺とは系統が違うのだ。北村地区のとあるお店は韓国伝統の小麦の麺を食べさせてくれる店として人気があるようだ。そこでぼくらは3種の麺を食べた。
 ひとつは海藻とあわび入りの手打ち麺、二つ目はカワニナ入り手打ち麺、三つ目はキムチスープの手打ち麺。いずれも秀逸な味だった。麺も太いのがあり、きしめんのように平たいものあり、細い麺ありで、バラエティーに富んでいる。本場中国の麺よりはるかにおいしく洗練されている。

 文化というものは中央から流れて辺境に至って完成されるものかもしれない。日本のラーメン、日本そばのうまさはそれを立証している。あるいは仏教とてそうかもしれない。インドで誕生した仏教は中国に伝わり、韓国を経て、やがて辺境の日本へとやってきた。奈良や京の仏像を思い出すと、その洗練された美しさは今の中国や韓国には残っていない。

 

北京にて、騎馬民族のルーツを知る

9/6(日)

 北京までは夜行列車で行った。本来は中国の国造りの基となった中原の大平原を眺めながら北京へと向かいたかった。しかし、洛陽―北京間は昼行特急が1日2本しかなく、始発が成都、ウルムチとともに遠隔地なので、きっぷの入手が困難なのだ。中国鉄道のきっぷの入手法は驚くべき複雑で、優等列車、ことにファーストクラスに関しては、地元の始発列車しか基本的に取れない。この事情に関しては本誌連載で詳しく述べたいと思っている。

 さて、わがK?270号は洛陽が始発。20時21分発で、北京には朝の6時57分に着く。新型空調装備の車両で、軟臥車(A寝台)はきわめて快適。食堂車で寝酒の白酒(なんと50度!)を飲み、コンパートメントのべッドに入り、うとうととしていたら、北京西駅に着いてしまった。ちょっと早いな、と思ったら、定刻の1時間も前の5時50分!だった。(こんなこと日本ではありえないよ)

 北京でのシルクロードの痕跡は、モンゴルの"元"時代の遺産である。となると、スルーガイドのBB氏の出番である。BB氏はウルムチ在住の中国籍のモンゴル人だ。彼の体には今もチンギス・カーンの末裔の血が流れているようで、夜な夜な酒が入ると、天下国家の激論がかまびすしい。
 ユーラシア大陸のほとんどを支配した大モンゴルの時代はとっくに終わっているというのに、いまだに中世の"黄金の日々"は彼の脳裏で羽ばたいているのである。
 北京では、大都(今の北京の基)の遺跡を公園にした元大都遺跡公園(フビライがヒキガエルのような顔をしている)、ラマ教の大寺院の雍和宮(ようわきゅう)、ネパール様式の仏舎利塔のある白塔寺、モンゴル料理のレストランが並ぶ旧モンゴル人街と1日中歩いた。

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(写真 天壇)
 なかでも印象的だったのは世界遺産ともなっている「天壇」である。 元の時代に作られた王宮は、まるでゲル(モンゴル遊牧民の家)を模した円形の建物で、なかは吹き抜けとなっており、天井から降る星々を眺め、歴代の王は宇宙と語らったという。
 ふと思ったのは、聖徳太子を祭る法隆寺の夢殿も同じような円形の建物だったのではなかったか? 故江川波夫先生の"日本人・騎馬民族説"が懐かしく思い出された。日本人のルーツはモンゴル高原の騎馬民族だった、という説である。聖徳太子の顔も騎馬民族系、という推論だった。
 もうとっくに消滅した学説のように思うが、天壇を眺めていると、とても新鮮な気分になった。実は聖徳太子も夢殿で見果てぬ宇宙と語らっていたのかもしれない。

悪名高き河南人に、ぼくらも逆襲された!

9/5(土) 洛陽

 洛陽は隋の都。西安に都が移される前の古都である。聖徳太子が607年に小野妹子を派遣し、妹子は煬帝に謁見する。
「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」
と太子のメッセージを渡して、
「辺境の地の若造が、何をぬかすか!」
と煬帝の怒りを買ったというエピソードが残っている。聖徳太子が煬帝とさも対等のような態度だったからだ。
 思うに小野妹子は当時の外務大臣のような存在だが、翌年には悲世清(はいせいせい)とともに仏典を携えて、帰国し、ふたたび彼を母国に帰している。煬帝に叱られつつも、うまく太子の思いを実行したものだ。なかなかの手腕で、ほめてあげたい。
 
 さて、洛陽は河南省にあり、河南人は昔から評判が悪い。スルーガイドのBB氏によれば「河南人を見たらドロボーと思え」と警戒の意思を緩めない。
 実際には天下のビンボー省で、多くの人々が出稼ぎに出ている。ちょうど新疆(しんきょう)の綿摘みの時期で、ウルムチ行きの列車はどれもが、「民工」と呼ばれる出稼ぎの男たちで混んでいた。

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(写真 白馬寺)
 この日、ぼくらは白馬寺へ向かっていた。タクシーのなかである。河南人の運転手が「市内、周辺をまわり、1日借り切って350元でどうですか?」と提案する。
 ぼくは「黄河が見たい」と言った。黄河は洛陽の北、30kmくらいのところを流れている。中原の穀倉地帯を流れる黄河を一目見たかったからだ。するとBB氏が「黄河に行って白馬寺までで150元でどうか」と交渉する。運転手は「モンゴル人には昔からかなわないよ」と渋々了解して、車の方向を変えた。

 黄河に着いたが、黄河が見えない!運転手は最近できたばかりのダムを見せたかったのだ。ちょうどお昼になったので、それじゃあ、ダム湖畔のレストランで黄河の「鯉」を食べようということになった。池簾に泳ぐ活きた鯉の姿料理だ。BB氏は嫌がったが、ぼくらは運転手も誘い、一緒に食事を取ることにした。3人でも4人でも料金はさほど変わらない。残すよりはいいじゃないか、という判断だ。運転手は最初遠慮したが、円卓を囲むと、一番の食欲だった。次から次へと平らげて行く。しかも一番良さそうな部分に最初に箸をつけるのである。礼儀しらずというべきか、それでもニコニコしながら、「中国人の多くは日本軍に殺されたけど、時代が変わっているから、今は尊敬しているよ」などとリップサービスを怠りない。
 
 食事が終わり、さらにドライブして白馬寺へ到着。約束の150元を渡すと、
「いいよ、いいよ」
と言う素ぶり。ご馳走したから、受け取らないのか、とも思ったが、約束だからと無理に彼の掌に金を押しこんだ。
 白馬寺はインドから中国へ仏教が伝わった最初の寺だ。経典が白馬に乗って届けられたという伝説があり、その名がある。玄奘三蔵もインドを回り、経典をこの寺に届けた。日本の留学生、空海もこの寺に滞在した。そんなシルクロードにゆかりのある寺だ。
 
 見学が終わり、門を出ると、例の河南人の運転手が嬉しそうな表情で待っていた。恩義を感じて、われわれを待っていてくれたのだろう。
 猛暑と湿気で汗びしょになったので、一度ホテルへ帰ることにした。
「家族は三人、勤めていたがリストラにあって止めて、運転手をしている。給料は上がったが、仕事はきつい」
などと運転手の家庭事情を聞きながらホテルに到着。
 メーターを倒してないので、てっきりサービスかと思ったのだ。ところが、料金は50元! メーターならば15元くらいのところである。運転手の顔はさきほどまでの穏やかな顔とはすっかり変わっていた。
「払わなければ、訴えるぞ!」
といういきなり険悪な雰囲気だ。
はいはい、と諦めて支払った。
BB氏は、
「あれが河南人のやり方ですよ。彼は最初からこのコースで200元の腹づもりだったのですよ。われわれはまんまと掌中にはまったのです」
と食事を誘ったぼくに反省を求めた。
当初はモンゴル人が勝ったが、結局最後は河南人が勝ったのである。

大鴈塔を見物し、共同浴場に浸かる

 9/1(火) 西安

 9月に入り、いきなり秋がきた。西安にいる

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(写真 西安駅前)
 本日(9月3日)の天気予報では、最低は17℃、最高は28℃である。朝、夕は寒いくらいだ。
 当初の計画では西安はすっかり近代都市になっているので、素通りにしたが、途中から急遽3連泊を追加した。シルクロード時代の"花の都"だし、ずっと中国の中心だったこの街を通り過ぎるのは、あまりにもしのびない。玄奘三蔵ゆかりの大鴈塔はやはりシルクロード発着の記念遺跡として写真が必要となるだろう。体力も限界に達していたので、最終行程を前にして、ここで少し休養をとっておこう、という意図もあった。
 西安は数度訪れているが、来るたびに変化している。今回は3年ぶりだったが、高層ビルは倍くらいに増えており、鐘楼の前にスターバックスやハーゲンダッツが登場していた。そういえば以前目立った日本の航空会社系のホテルも皆名前が変わっている。業績不振で撤退したのだろうか。そう思えば、ここ2、3年の中国旅行は惨々たるものだった。鳥インフルエンザにはじまり、上海の抗日デモ、オリンピックのチベット騒動、それに加えて今度の豚インフルエンザと新疆(しんきょう)の事件である。かつては大雁塔広場には日本人が群れをなしていたが、今はほとんど姿を見ない。タクシーの運転手も、「広場はいつも人だかりだったが、5月と10月の連休だけしか混まなくなった」と嘆いていた。
 
 さて、西安では風呂の話を報告しておこう。この旅ではバザールと麺食、温泉(銭湯)にこだわっている。世界で一番風呂好きなローマ人と日本人を結んだシルクロードには温泉(銭湯)の文化もきっと残されているだろう、というのが企画意図だ。これまでイスタンブール(トルコ)、イスファハン(イラン)、ウルムチ(中国)と共同浴場に入ってきた。それらは本誌連載で詳しく報告したい。
 
 西安の街には諸所に「浴場」「温泉」の看板があり、共同浴場がある。さすが玄宗、楊貴妃の華清池(温泉地)ゆかりの土地である。その一つ、市中、小雁塔ちかくの「天源浴場」に入ってみた。
 外観は5階建てのホテルのように大きな建物である。中に入ると、受付と脱衣場。その向こうにあるのは大きなプールのような4つの湯舟だ。きけば温泉ではなく、水道水を使っており、水温をそれぞれ変えているという。ここでは水着など着用せず、日本と同じく皆すっぽんぽんで、まずは湯舟(プール)に浸かり、体をほぐす。次は蒸気風呂。高温の蒸気が渦巻く部屋で汗びっしょりになる。中央には壺がおいてあり、塩が山盛りだ。塩で体をこすると肌がキレイになるという。蒸気風呂が終わったら、さらに高い水温の湯舟に浸かり、サウナ室へ。ここは日本のように熱くはなく、寝ころんで体を休める。なかにはイビキをかいて眠っている人も。汗を出しつくしたら、洗面台へ移動してはじめて体や髪を洗う。ここにはシャンプーやリンス、ひげ剃り、歯ブラシまで用意されている。さらに希望者はあかすりマッサージサービス(別料金)がある。

 二階には健康機器がおいてあり、三階、四階には宿泊施設もある。温泉といおうか、ヘルスセンターといおうか、フィットネスクラブといおうか、とにかく大満足の銭湯体験であった。
 日本と違うのは、ここでは前をタオルで隠したりはしないこと。湯舟の縁に灰皿がおいてあり、浸かりながら喫煙できることなどである。ちなみに料金は68元(約1000円)で、時間制限はなく、一日じゅう過ごすこともできるという。

 スルーガイドのBBさんによれば、ここは最高級クラスで、中国の街にはもっと小規模の共同浴場(入浴料10元=150円)が数多くある、という。そちらのほうがイメージは日本の銭湯に近いので、機会があれば体験してみようと思う。ただしBBさんによれば、
「きれいじゃないですよ。湯など黄色く汚れています」
だって!!

中国のど真ん中を走り、見えたモノ

8/31(月)西安

 やっとブログが追いついた。
 
 日本を出て、45日目のことである。この間、列車移動、遺跡・テーマ取材などに連日追われ、原稿整理もままならない。トルファンで以後のスケジュールを変更して(帰国を4日間延長)、やっと日毎の取材メモの整理がかろうじてできるようになった。
 
 ネット、メールのパソコン環境も満足のところは一切なかった。ホテルでしか作業はできないので、前もって購入しておいた海外でのイー・モバイルの通信データカードはほとんど役に立たない。おまけに各ホテルのネット環境もばらばらで、ネットは開けてもメールが起動しなかったり、また受信できても送信できなかったりなど。原因の詳細は分からないが、街へ出てネットカフェを探したこともしばしばあった。
 ここ西安のホテル(西安賓館)のネット環境はこれまでで最高だ。ランケーブルだけでユーザーネームもパスワードも不要。取材協力、手配を依頼した「トラベル世界」とも分刻みでスケジュールの変更・確認ができた。これが本来パソコンの威力なのだ。これまではこのパソコン通信が足をひっぱってきた、という恨みもあった。敦煌ではブログ一つ送付するのに何度もやりなおし、6時間くらい送付だけの作業にかかった。それでも通信が機能するだけでうれしくなり、ストレスは軽減した。
 さきほど西安駅に降り立ち、ホテルでシャワーを浴び、今パソコンに向かっている。気温は20度、曇天。気温35度、カッーと快晴の敦煌に比べると、まるで外国に来たようであり、初秋を迎えたという感じだ。

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(写真 列車から見える朝日)
 柳園(りゅうえん)からの夜行列車の話をしよう。
 ウルムチ発、連雲港東行きの「1352直快」は走行距離3954km。ウルムチを午後の22時36分に出ると、終着の連雲港には4日後の午前6時06分に着くというロングラン列車である。ぼくらは途中の柳園から西安までの一区間を乗ったのだが、一区間といえども約29時間、走行距離2096kmもあるのだ。日本でいえば東京から石垣島くらいの距離だろう。
 実はこの列車にぼくは30年前に乗っているのだ。田中角栄内閣時、日中国交再開後間もなくのことで、日本人がはじめてシルクロードに旅行できるようになった矢先のことだった。上海からウルムチへ3泊4日の列車旅行だった。

 あれから30年が経ったが、なんと客車は当時のままのものだった。
 軟臥車(グリーン寝台)も硬臥車(普通寝台)も餐車(食堂車)も同じもので、ただ当時は「特快」(特急)だったが、今は「直快」(準急クラス)に格下げになっていた。乗務員のサービスも当時と同じようで、日本人(外人)に対しては特別のハカライがあり、撮影にも協力してくれる。それまでの緊張した新疆(しんきょう)とは大違いだった。

 変わったところといえば、当時は西安からは蒸気機関車がひく単線だったが、今は電化、複線化され、天下の剣とでもいうべき烏鞘嶺(うしょうれい)の峠越えは長さ40kmのトンネルになっていた。
 渭河にそってえんえんと列車は走るが、かつて対岸にはロバ道のようなか細い、往時のシルクロードが並走して続いていた。30年経った今は、舗装道路に大型バスが列を連ねて走っている。
 ふと、関沢新一センセイ(作詞家、脚本家、詩人)を思い出した。センセイはぼくの駆け出しの頃の師匠で、
「どや、アシハラ君、シルクロード、ゆこうや。まだ汽車がおるで。汽笛がきこえるで」
 その一言でぼくは師匠とシルクロードへやってきたのだった。
 センセイはすでに他界されたが、思えば、この旅は亡き師匠に報告するために、呼ばれたのかもしれない。

 ♪今夜も、汽笛が、汽笛が、汽笛が
 都はるみの歌う「涙の連絡船」は師匠のヒット詩作のひとつだが、その汽笛は「実は蒸気機関車の汽笛なんや」と、その旅でしみじみと聞かされたことをいま思い出している。

3年前の"あの人"には、会えなかった

8/28(金)敦煌
 
 8月28日、やっと敦煌に着いた。
ここも懐かしい町である。3年前に来た時に比べると、埃っぽさはなく、清々しい緑の並木が美しい。
 
 翌日、ぼくの中で恒例になっている"莫高屈詣で"へ。ここも以前より整備され、周辺は美しい公園になっていた。日本語ガイドに案内されて、10屈くらい見学した。いつも感動するのは、1000年以上も前に、人里離れた洞窟で、幾多の僧たちが洞窟を掘り続け、仏の姿を描き続けた根性だ。
 装飾はかなり退色しているが、極楽浄土を願う人々の時代々々の思いのようなものが伝わって、いつの世も来世を願う人の気持ちは変わらないのだ、と実感した。近代哲学以来、ぼくらは来世など信じていないが、それまでは(いや今もだろう)、人々は長らく極楽(天国)への道を願い続けてきたのだ。キリスト教もイスラム教も、仏教もみな同じ思想だ。来世を信じられなくなったのは、つい200年来の無神論者(ニヒリスト)で、世界でも日本人が一番多いかもしれないな、などと思う。
 現世の苦難は時代を経るごとに薄れてきたように思うが、ついこの前までは戦争があり、原爆のような生き地獄があり、今も世界のどこかで生死のきわをさまよっている人々がいることを思うと、薄暗い洞窟の1000年の微笑みの意味が少しは分かるような気がする。
 
 鳴砂山、月牙泉、玉門関、陽関など敦煌の名所を一通り見て、夕食は夜市へ。
夜市とは夜のバザールで、屋台の飲食店が集まるところだ。敦煌の夜市で面白いのが、「名喫広場」なる屋台のコーナー。それぞれにママさん?がいて、客の接待をしてくれるのだ(料理はほかの専門屋台が出前してくれる)。ここで売っているのは酒の類で、いわば「屋台飲食クラブ」のようなもの。それが50店舗ほどズラリと並んでいるから銀座も顔負けなのである。

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(写真 敦煌の夜市)
 実は3年前に作家の椎名誠さんとそこへゆき、NO37の屋台クラブで酒を飲み、中年の美しいママさんに接待されたことがあったのだ。その時、あのシイナ氏よりぼくの方がモテてしまったのである。筋肉がしまって、長身で日に焼けたシイナ氏よりも"短躯出腹"の当方ではどうみても分が悪い。ところがママはぼくのほうばかり接待に励んで、意気投合したのである。
 3年前の甘い体験を期待して、名喫広場を歩いたのだが、広場はすっかり模様変えして、若い女性ばかり。きけば去年から店主は35歳以下の女性に制限されたとか(経営は敦煌市がしている)。
しかたなく若いママ?の店に座り、思い出話をひとしきりして、前回のモテた理由をきいたら、
「耳たぶが大きくてお腹が出ているからお金持ちに見えたからでしょ!ジーパンにTシャツのその方は労働者だと思われたのよ」
といともカンタンに一蹴された。
 
 そうか、やはり金だったか?
 
 中国人の「金次第」、「見てくれ判断」は今も昔も変わってないようだ。

嵐が去ったトルファンの夕べ

8/25(火) トルファン

 忘れないうちに書いておきたい記憶がある。トルファンの回族の食堂でのことだ。小さなお店はテーブルが二つしかない。昼間はテーブルが店内においてあるが、夜になると、表に出して、オープンレストランになる。つまり屋台だ。

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(写真 トルファン名物のシシカバブ)  

 親子三人が働き、父親がコック、母親が注文取りと経理、中学生くらいの娘が料理を運んでいる。三人で実にテキパキと働いていて、気持ちがいいのと、とびきり安い(地元の新疆ビールが3元=45円!)ので、トルファン滞在中にしばしば足を運んだ。
 
 中国は多民族国家である。とりわけ新疆はウイグル人が多い。回族は西安周辺に多いが各省に分散している。漢民族はこのエリアにはもともと少なかったが、政府の"西部開発"の方針で、新しい入植者が多く、ここ10年間で急増した。ウルムチはもともとウイグル人の街だったが、今や漢民族が90%に達している。今回の7・5事件の背景には、そうした少数民族の危機感があるといわれている。
 トルファンはまだウイグル人が多く住み、夜には屋台がたち、シシカバブを焼く匂いが通りに立ち込め、昔のシルクロードの面影が残る街である。ここにも漢人が移住しはじめた。

 と、ぼくのテーブルの前に突然、漢人が腰をおろした。骨太の筋肉のしまったお兄さんだ。ぼくのほうをちらっと見ると、後ろポケットから財布を取り出し、デンと机の上に置く。いかにも「俺は金を持っているぞ」という偉そうな態度である。

すると、大声で、
「ヨ―イ、フィン、シャ―ゴ、シャーゴ!ヤンジュウ!」
何か娘に注文したらしい。
 
今度はケイタイに電話して、
「ハイホマ、シンイーズンモヤ、インクズメヤン!!」
大声でしゃべりまくる。声を荒げて、まるで借金の催促か、ケンカしているようだ。
その間、ちらちらとぼくの様子を伺う。やはり気にしているのである。

 ぼくはローマを出発して以来、ヒゲを伸ばしている。おまけにサングラスをしている。漢人の男は、どうやらぼくが何族か、測りかねているようだ。ウイグルではないし、回族でもないし......。

「チンクエイゲッ!ゲッ!」
どうやら料理を催促しているようだ。「早くせい!」とでも娘を叱っているのだろう。やけに声が大きい。隣のテーブルのウイグルの男女がびっくりして振り返るほどだ。その間にもペッ、ペッとところかまわず唾を吐く。

 漢人には今も「中華思想」をもつ男が多いといわれる。世界で選ばれた、一番偉い民族だ、と勝手に思い込んでいる。だから隣近所にははばからない。

「ヨータン、ジンヂュ」
テッシュペーパーが出された。
 漢人はハンカチをもたない。汗はテッシュで拭くのが常である。夏の夕暮れだ。男はびっしり額に汗をかいている。
 娘が重ねたテッシュを全部はとらずに、少し残してある。やはり、ぼくのことを気にしているのである。ぼくは知らんぷりして、相変わらず、ひとり新疆ビールを飲んでいる。

「チンギィーチャ!、クエリャ、クエリャ!」
 
 茶が運ばれた。「お茶よこせ」と言ったのだろう。
やっと料理が運ばれてきた。餃子ではなく、砂鍋だった。砂跌で作った鍋に野菜や羊肉が山盛りになった鍋料理だ。男は汗だくになりながら、ワッサ、ワッサと平らげる。時折ペッ、ペッ! と骨をテーブルに吐き出す。ほんの5分くらいの食事時間だった。

「ドゥショウチェン!」
 
 男は金をばらまくように置き、立ち去った。
嵐が突然過ぎ去ったようだった。ウイグル人の心境が少し分ったような気がした。新疆では嵐のごとく新人類が急増しているのである。

回族の店の、小さな餃子屋

8/25(火) トルファン

 予定ではカシュガルからトルファンへ。南疆(なんきょう)鉄道で同じ道を帰るはずだったが、いささか疲れて、取材がスローになってしまった。スルーガイドのBBさんとカメラマンの立木さんと相談して、ぼくだけ先にトルファンへ飛行機で飛び、二人をホテルで待つことにした。そうすれば1日分が浮き、少しは休養ができそうだし、溜まっていた取材ノートも整理できるだろう、というつもりだった。
 ところが夕方ホテルに着いたら、バタン、キューで、そのまま翌朝の9時まで眠ってしまった。目が覚めるとだるくて、動けない。この旅行中の平均睡眠時間は5,6時間だったから、いきなり12時間以上眠って、体がおかしくなったのだろう?熱はないが、とにかくだるくてベッドから這いだせない。
 
 午後1時頃、急に空腹感に襲われ食事をしに外へ出る。ふらふらしながら歩くと、小さな店があり、思わず飛び込んだ。
 中国語はまったく駄目なので、メン(麺)! ハン(飯)!と言うと、何だが通じたらしく、主婦のようなおばさんが娘をうながし、注文を取りに来た。
回族の親子らしく、顔、風貌は漢人と変わらないが、店には「清真(イスラーム)」の看板が出ている。回族は13世紀頃、アラビア系の回教徒が中国に移住して漢人と混血化したが、今も頑固にイスラーム教を守っている。

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(写真 トルファンの餃子屋)
14歳くらいの可愛い娘が、
「ダンプリング」
と英語で言う。
「そうか、この子が通訳なのか?」
と理解して、
「ヌードルでも、ライスでも何でもいいから」
というと、ふたたび、
「ダンプリング」
「ワッツ、ダンプリング?」
ときくうちに、
「そうか、餃子のことか」
とようやく納得。餃子は回族料理として有名で、羊肉と野菜で10種類くらいあり、1個わずかに3角(4,5円)! 
 こちらの食べられる個数で注文する。10個頼んでもたったの45円である。中国の店はみな専門店で、餃子なら餃子、饅頭なら饅頭、麺なら麺しかない。まる1日何も食べていないので、新疆(しんきょう)名物の小さな水餃子をあっという間に10個平らげ、冷たいビールを飲んで、合計たったの6元(約90円)!

 なんだか回族の働き者の母親と娘に悪い気になって、その晩、カシュガルから着いた二人を誘って、ふたたび餃子を食べに行ったのであった。

ラグ麺の味わいは中国の麺と、イタリアのパスタの融合だった

8/22(土) カシュガル

 シシカバブ、ポロ、ラグ麺は新疆(しんきょう)の三大名物料理。ウイグル人にとっては欠かせない日常食である。街角の広場の屋台に羊肉の焼け焦げる匂いがすると、食欲がうずきはじめる。一日の疲れが、冷たいビールと肉を要求するのである。
 ただし、これは日本人だけのことで、ムスリム(イスラーム教徒)である現地のウイグル人は酒を飲まない。8月20日からラマダン(断食月)に入り、夜明けから日没まで食事、水など体に入るものは一切禁じられる。観光客(といっても今夏はウルムチ事件の影響でほとんどいない)にとって困るのは屋台や食堂が日没まで開店しないことだ。カシュガルの日没は午後9時頃である。観光客は漢人経営の店を必死で探すことになる。

 さて、シシカバブはご存じのように羊肉の串焼き。

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(写真 カシュガル市街)
 ポロは焼き飯で、ご飯と羊肉、たまねぎ、にんじん、にんにくの混ぜ焼きごはんだ。大きなフライパンで焼くので、とてもおいしい。ラグ麺は小麦粉を水でこねて、手延べにした麺をゆで、皿にのせ、上からトッピング(味付けした羊肉、ピーマン、たまねぎなど)したもので、これまたとてもおいしい。冷たくあっさりとした麺が、とりわけ暑い夏にはうれしい限りだ。
 
  このラグ麺、これを屋台で箸を使って食べると、中華麺のような趣となり、ホテルでフォークを使って食べると洋風のスパゲッティー風な味わいになる。中国の麺とイタリアのパスタのちょうど中間のような料理で、これまたシルクロードの中間点にいることを実感したのであった。

南疆鉄道、風の道をゆく

8/21(金)~8/22(土) ウルムチ~カシュガル

 ウルムチからカシュガルへ。新疆(しんきょう)の二大都市を結ぶ南疆(なんきょう)鉄道に乗ったのは、これで二度目だ。2001年10月に開通し、総延長1588km、所要約24時間、標高4300mの天山山脈を越える雄大な路線だ。
 トルファン付近の無数の風力発電機はこの鉄道の新景観になっている。"天山おろし"とでも呼ぼうか、4000mの巨大な山塊から吹きすさぶ季節の風が今は新しく電力として開発されている。

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(写真 タクラマカン砂漠の風車)  
 シルクロードは"風の道"であり、タクラマカン砂漠のあちこちに"風庫"と呼ばれる風の名所がある。思えばタクラマカン砂漠は海であり、オアシスの町々は港である。ラクダは小舟と思えば、分りやすい。
 風は宝物を運んだ。古くは絹であり、中世は香料であり、近世は金や銀だ。風は世界を動かした。モンゴルは東ヨーロッパまで版図を広げ、アジアの匂いをヨーロッパに吹き込んだ。逆にローマ帝国はヨーロッパの心をアジアに伝えた。いずれも風のなせる業である。仏教も風にのって、極東の日本へ伝来した。
 
 シルクロードを吹き抜ける風に乗って多くの文化が東西を行き来した。チンギス・カーン、マルコ・ポーロ、玄奘三蔵は、思えば"風の旅人"だったのだ。

街角ごとに軍隊と特別警察、ウルムチはまだ緊張が続いていた。

8/19(水) ウルムチ

 噂の通り、ウルムチは緊張していた。駅前にはピケが張られ、一般乗降客は駅前広場には入れない。周辺には機関銃を構えた軍隊が取り囲んでいる。

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(写真 ウルムチ市街)
 撮影は一切禁止。ものものしい装備だ。
ホテルに向かう。街角には迷彩服の軍隊が整列しており、巡回警備しているようだ。黒服は地方から新疆に派遣された特別警察、青服の従来の警官と、三つのカラーがウルムチの中心街を警備する。
 1カ月以上たった今も7月5日の事件の後遺症が残っている。

 ご存じだと思うが、7月5日、広州で起きたウイグル人虐殺事件を政府が報道しなかったという理由で、ウルムチの新疆大学の学生たちが共産党本部前の広場に集まり、抗議した。それに対して政府が圧力をかけたため、ウイグル人が暴動を起こし、漢人が120人殺害されるという事件が起こった。その後、政府は軍隊の動員をかけ、2000人ウイグル人が虐殺され、さらに漢人の復讐行為ともいうべき暴動があり、ウイグル人80人が虐殺された、という一連の血なまぐさい事件が起こった(数字は不明瞭)。
 政府は今も新疆(しんきょう)での国際通信を止めている。新疆へは電話もファックスもメールも閉ざされたままなのだ。
 しかし、シルクロードの旅では新疆をパスするわけにはゆかない。幸い、通訳兼ガイドのBBさんがウルムチ在住なので、危険地帯は避けて取材しようということになった。

 さて、ホテルに入ったら、ここも軍隊ばかり。BB氏によれば客室の3分の2は軍隊、特別警察が使っており、ホテル滞在の外国人はすべて監視されているとのことなのだ。
 わずか2泊しただけだが、ここで小さな事件が起こった。インターネットの通信データカードを紛失したのだ。ネットは机上で使用するので、紛失するはずはないのだが、と不思議だった。
 
 カシュガルに向かう列車のなかでBB氏にそのことを話したら、
「それは故意に誰かがやったんじゃないか?」
との意見。
「いやいや、ぼくの、不注意かもしれない」
と自己反省しつつ、大いなる謎は残ったのだった。

カザフと中国の国境で尋問のために連行された!

8/17(月)~8/19(水) アルマトイ~ウルムチ

 タラズ、アルトマイ・・・。カザフスタンの歴史の街はいずれも緑豊かなオアシスの街だ。建物や公園、通りの名などにソヴィエト時代の郷愁があちこちに残っており、まるでロシアの田舎町に来たような印象を受ける。人々の言葉もロシア語である。

 一方でこの国はソヴィエト時代の悪い面もそのまま引き継いでいるようだ。街角には軍人の像、公園には大砲の列。まるでかつての軍事国家を思わせる。警官や公務員が威張っているのも、旧ソ連そのままの体質だ。

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(写真 アルマトイ駅) 

 中国、ウルムチへの列車に乗るため、アルトマイの駅へ。ここで駅やホームを撮影していたら、女性の公安がやってきて、「撮影禁止!」と怖い顔。「知らなかった。これからはやらない」と現場を立ち去り、駅前の公園に避難していたら、警官二人を同行してきて、ついに捕まってしまった。
「写真をみせろ!」
 しかたなくデジタルを見せたら、
「消せ!」
 駅とホーム、列車の写真をことごとく消さねばならぬ事態に陥った。
 
 さらに深夜の国境越えでは、ぼくと立木カメラマン(堀さんとアルトマイで交代した)が呼び出され、審査室へ連行されることになったのだ。
 車内のパスポート審査の時は、
「ツーリストです」
と一般観光客を装ったが、ぼくの大量の取材ノートにパソコン。立木カメラマンの機材の多さに、どうやらメディアだと疑われたようだった。

 駅の付属の建物は薄暗く、刑務所のようだ。もうひとり連行されたロシア系の女性は顔を隠して泣き始めた。

 ――ウーム。これは事態かも?
 と、座らされていたら、立木氏がまず呼び出される。
 
 10分、20分経過。
 長いのである。
 
 すると、一人の係員が、英語で、
「悪く思わないでね。私たちも仕事なんだ。列車は大丈夫だから」
 と、話しかけてくる。
 ほどなく立木氏が戻って、ぼくは尋問なしで、無事、列車の人となった。ウルムチ事件のあと、中国政府は国際的に報道記者を警戒している。カザフスタンも隣国だから中国政府に協力しているのだろうか。アルトマイから列車でウルムチに入る日本人は珍しいから疑われたのだろう。

 立木氏は、
「身元調査だけだった。通訳がいなくて手間どったが、自然派写真愛好家で通したら、相手は何も言わなかった」
 深夜の連行、尋問の非常事態だったが、列車は大幅な遅れはなく緊張のウルムチ駅へ到着した。
 
これから国際電話、インターネットはすべて封じられている。

次に通信できるのは、新疆地区を離れた8月27日になるだろう。

現地通貨の入手が大変! 日本円、クレジットカードは通用しない

8/15(土) タラズ

 サマルカンドからタシケント、タシケントからタラズ、アルトマイへ。1日ずつの移動で、急がしい旅だ。タラズから国はカザフスタンに変わる。
 
 なによりも困ったのが現地通貨だ。日ごとに国が変わるので、現地通貨も両替しなくてはならない。おまけにこのエリアは日本円がまったく通用しない。日本円が両替できるのは国営のメインバンクしかないのだ。日本を出る時、ドルとユーロに両替したが、メインは日本円でもってきた。日本円は世界各国で強いからである。

 ところが中央アジアでは日本円はどこもがなじみがない。トルクメニスタンでは国営中央銀行までいって日本円を両替したが、相手が間違えて韓国ウォンとして換算されたこともあった。なんだか少ないので、気がついたからよかったものの、国の銀行だからと信用していたら大損するところだったのだ。ユーロはヨーロッパで使い果たし、ドルも次のメイン紙幣として使ってきたから、もはや日本円しか残っていない。

 ジャンブール(タラズの駅)で降りた時、はっとしたのが現地通貨(テンゲル)が手元にないことだった。財布を見ると、ウズベキスタンのスムは残っているが、 ドルはたった3ドルしか残っていない。
タクシー運転手に事情を話し、3ドルと残りのスムを支払って、やっとホテルにたどりついた時は、日本円以外何もない。おまけに着いたのは土曜日の18時過ぎで、翌日は日曜日なのである。
 ホテルにVISAカードのシールが貼ってあるのを見た時は、奇跡!か、と思えた。イラン、中央アジアではすべて(四つ星ホテルでも)現金決済。カードは一切使えなかったのだ。
 さすがカザフスタン! 事情は違うのだろうか?
と安心したのもつかの間。

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(写真 タラズの街角)
「機械が壊れていてダメなの。現金にして」
と、韓国系の美女のフロント係。
「銀行は日曜日がすべて休みです」
 そこでVISAのATMが街中にあることをきき、日曜日の午前、奔走する。さいわいATMはほどなく見つかり、難をさけた、という具合。 

列車の発車は午後1時。ぎりぎりセーフだった。
 
 タラズは8世紀にアラビア軍と中国の唐軍が戦った歴史的なシルクロードの舞台だ。タラズ川で決戦があり、唐軍が大勝した。その時、紙の技術がアラビアへ、さらにヨーロッパに伝わったとされている。
 その歴史の街で、紙(紙幣)に泣かされたのも、何かの縁なのだろう。

緊張の国境越えのはずが・・・

8/9(日) トルクメニスタン

  いよいよトルクメニスタンに入国する。トルクメニスタンは中央アジアのなかでも特殊な国で、北朝鮮のようにグルバングリ・ベルディムハメドフ大統領がいわば独裁制をしいているため、外国人の入国を制限している。日本には大使館がなく、現地でビザを入手しないと入国できない。イラン~中央アジアはシルクロードのメインロードだが、この国があるためになかなか通り抜けが難しいのだ。ところが、この企画に協力いただいている旅行会社・トラベル世界では毎年バスによる西安~ローマのツアーを実施しており、トルクメニスタンのビザ入手のノウハウをもっていたのだ。そこで協力をお願いした。

 日本から事前申請しておき、現地でビザを受け取る方法で、イラン国境近くのマシュハドへゆき、マシュハドからトルクメニスタンの国境へ。そこで約60ドル出して、正式なビザを受け取るのである。
 
 イランとトルクメニスタンは地図上では鉄道が繋がっているが、貨物列車だけで旅客はない。現地でビザを受け取るには陸路でゆかねばならない。車とガイドをチャーターしての半日行程だった。
 国境のパスポート審査は緊張した。なんせ今時分、日本人の個人旅行者などいないから不審がられるのは覚悟していた。近頃、麻薬密輸事件があり、警察との銃撃戦があったばかり。審査室は刑務所の独房のように閑散としている。 ところが椅子にふんぞりかえった出腹の審査員が「サムライ」、「ハラキリ」、「ショーグン」という日本語を知っており、ぼくの名が「SHIN(しん)」だということに興味を示し、「おしん!」「おしん!」と名を告げられて、握手され、思わぬ難関を突破したのであった。審査員が「おしん」の大ファンだったことが救いだった。 

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(写真 トルクメニスタンの市街) 
 さて、トルクメニスタンはイメージに反して、素晴らしく美しい国だった。砂漠のなかに緑がしたたり、新しい高層ビルが林立する。まるでシルクロードの近未来都市! 狐につままれたようである。しかし、どこを見ても市民の人影がない。人がいると思うと、男は軍隊か警察、女は公園の掃除婦だった。ただ大統領の巨大な彫像が街のあちこちで「オアシスの宇宙都市」を見下ろしていた。 

駅にはモスクがあり、"お祈り停車"があった

8/3(月)~8/4(火) テヘラン~イスファハーン

 テヘランからイスファハーンへの夜行列車。セカンドクラスだった。この旅行では基本的にファーストクラスを指定しているが、混雑して取れなかったり、ファーストクラスが列車についていない場合はやむなくセカンドクラスになった。
 もともと鉄道運賃は格安で、ファーストクラスの料金がセカンドの1.5倍であっても、飛行機に比べたら格安なのだ。(この列車の場合、テヘラン~イスファハーン、380km普通寝台車がたったの600円だ)
 
 さて寝台車の場合、ファーストはコンパートメントの4人部屋、セカンドは6人部屋だ。日本でも昔のブルートレインがそうだったように、中段ベッドがある。知らない人と夜をともにするのは、どうも気おくれがして、「空いていればいいのに」などと期待するのは無理。寝台車はどの国でも満員状態が普通である。
 
 

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(写真 夜行列車のコンパートメント)
相席になったのは、とある地方局の新聞記者、技術畑のサラリーマン、サングラスに迷彩服のGIまがいの米軍ファッションを決めた若者、普通のおじさんなどで、ぼくが日本から来たことを知ると、皆が珍しがって、まるで動物園のパンダになってしまった。
 記者が好奇心丸出しで、パソコンを抱えて、上段ベッドから降りてきて、「そら、聴け」とばかりにペルシャ音楽の解説をはじめる。普通のおじさんは「夜食にどうだ」とナンを取り出す。GI青年は歌をうたいはじめる。酒がないのにまるで深夜の宴会である。あげくの果ては、鉄道警察がやってきて、ドアをたたき、
「静かにしろ!」と叱られる始末。

それでもジャパン・コールは鳴りやまず、深夜まで宴会は続いた。
 浅い眠りで目覚めた午前5時30分、名もない駅で列車は停車した。乗客がぞろぞろと降りて行く。
なにごとか? 不思議に窓を覗き込むと、地方記者が、
「お祈り停車だ」
という。

 駅には"Prayer's Hall"と書かれた、モスクふうの建物が付随している。駅名はない。きけば、夜明けと夕暮れ、列車はお祈り停車をするのだそうな。そうした「お祈り専門停車駅」がイラン各地にある。
 停車時間は約30分。
 お祈りが終わって、ゆっくりと列車は出発したが、イスファハーン着はちょうど27分の遅れだった。

空手の先生がボディガードに

8/2(日) テヘラン

 テヘランは今回の「シルクロード・アドヴェンチャー」の行程のなかで、危険度の高い地域であった。日本を発ったのが7月15日だったが、その、直前にイランの大統領選挙があり、前任者のアフマディーネジャード氏が当選した。だが、選挙に不正があったとして、対抗馬のムサビ氏のシンパが抗議デモを繰り返し、ついには軍隊が出動して死者も出るという市街戦が繰り広げられていたのである。ムサビ派は民主派といわれ、背景にアメリカの後押しがあるといわれていた。結局は国家最高顧問のハーメイネイ師が現大統領を推して、反対派が鎮静された。テヘラン滞在はその直後のことだったのだ。

 さて、どうなることか? と内心ドキドキしていたが、駅に迎えにきてくれたガイドのアフマドさんに会ったら、いっぺんに不安は解消されてしまった。アフマドさんは身長190cm、重量級の大男で、日本語はぺらぺら。きけば日本に14年間暮らし、空手のインストラクターをやっていた、というのだ。今もテヘランで空手を教えている。

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(写真 テヘラン街角のチャイハナで水たばこを試す筆者)
「もう大丈夫ですよ。街はいつもと変わりませんよ」

その一言で、緊張が一瞬にしてほぐれた。

 イランはイスラーム世界のなかでも規律のもっとも厳しい シーア派の拠点 である。飲酒は禁止されているし、写真撮影なども規制されている。市街戦の直後だし、テヘランでは行動をひかえ、終日ホテルにこもり、休日にしよう、と思っていたのだが、アフマドさんの力強い協力で、また町や駅へと繰り出した。雑踏や群衆のなかでひときわ目立つアフマドさんの存在が神の救いのように思えたのだった。

トランス・アジア・エクスプレス

 7/29(水)~8/2(日) イスタンブール~テヘラン

 今回の「シルクロード・アドヴェンチャー」で一番悩んだのはルート作りである。トルコから中央アジアに入るには二つのルートがある。一つはトルコからロシアをぬける北上ルート、二つ目はイランをぬける東進ルートだ。北上ルートはシルクロードのいわゆる"草原の道"でカザフスタンに繋がっている。東進ルートは駱駝商隊(キャラバン)の道で、一般的なシルクロードだ。

 北上ルートには問題があった。トルコと隣国のアルメニアは鉄道が繋がっているが、国交が断絶しており現在は閉鎖されている。グルジア、アゼルバイジャンへと迂回もできるが、そうなると政治紛争の絶えないチェチェンを通らねばならない。
 東進ルートはというと、イランへは入れるが、トルクメニスタンがネックである。トルクメニスタンはご存じの方もあるかと思うが、"中央アジアの北朝鮮"といわれるような軍事独裁体制を敷いている。日本にも大使館はなく、個人旅行での入国は極めて困難で、現地でビザをとらねばならない。準備段階でも国境は閉ざされていた。

 

20090729_0802_istanbul_to_teheran.jpgところが出発直前に、運よく「国境が開かれた!」という朗報が飛び込んだ。ルート的にはこちらがオーソドックスなシルクロードなので、現地でのビザ入手可能情報を得て、このルートに決定した。
 イスタンブール~テヘランへは週一便「トランス・アジア・エクスプレス」なる国際列車が走っている。走行距離は約3000km。3泊4日の長大旅行だ。

 イスタンブールを7月29日(水)の夕刻に出て、アナトリア高原を横断し、ワン湖をフェリーで渡り、イランへ入国。タブリスを経てテヘランへ。テヘランに着くのは8月1日(土)の夕刻の予定だ。
 
 さて、どんな列車なのだろうか?どんな旅だったのだろうか? 詳細は本誌掲載を読んでいただくとして、結果だけお伝えしておこう。

 なんと、この列車、テヘランに着いたのは8月2日(日)の午前6時。実に12時間遅れ!で、ついに4泊5日の列車旅となったのである。日本では絶対ありえないよね?やはりここシルクロードには、悠久の時がゆったりと流れているのであった。

イスタンブールの街をムスリムと歩いた

7/28(木) イスタンブール

 ラマダン(断食月)が近い。今年は8月20日頃から1カ月がラマダンになるようだ。イスタンブールのガイドのエリキンさんは熱心なムスリム(イスラム教徒)で、毎回のお祈りを欠かさない。ガイドの途中でも「昼のお祈りに行ってきます」とか言って、消えてしまう。
20090728_istanbul.jpgどうやら近くのモスクにゆくようである。全トルコにモスクは70,000あるという。
 ビザンチン帝国が崩壊して以来、イスタンブールは
回教徒の街になった。キリスト教の聖堂も改修されて、今は皆モスクになっている。

 朝はアザーン(祈りの呼びかけ)ではじまり、夕方はふたたびアザーンの声をきいて一日が終わる。ゆるゆると立ち昇るようなアザーンの声がするたびにエリキンさんは忙しい。
 お祈りは一日5回。日の出、昼2回、日没、夜と、30分から1時間くらいかけて、アッラーの神にひざまずく。アッラーはすべて支配しており、人の生き方や寿命も決めている。生きるも死ぬもすべては「アッラーのおぼし召し」なのだ。天国にゆくために人は善行を施す。アッラーのためには命さえ惜しまない。戦死すれば、天国行きは保障されている。

 エリキンさんと二、三日、付き合ったが、彼の立ち回りを見ていると、生き方よりも死に方を考えているようで、死ぬ前にどれだけの善行をなしとげられるかが、一番のテーマのようだ。

 「ボーナスを貯めるのと同じです。一日少しずつ貯めておけば、アッラーはちゃんと見てくれている」

 善行とはお祈りを欠かさないこと、コーランの教えを守ることで、美食や趣味の楽しみとは無縁である。
 清廉潔白、無欲恬淡な人か、と思っていたら、請求書には、使っていない車代、覚えのない飲食代、交通費の上乗せなどが入っていた。

 どうやらアッラーは異教徒からは利用できるだけ、しぼり取れ、と教えているようである。イスラーム主義となかなか世界が協調できないのは、こうした背景があるのかもしれない。

バルカン急行

 7/26(日) ソフィア~イスタンブール

 ソフィアからイスタンブールへ向かう。「バルカン・エクスプレス」という名の国際列車だ。その名はいいが、実は車体はもはやくたびれて、ヨーロッパ鉄道の"化石"と言ってもおかしくない。 
乗客はバックパッカーや帰郷する出稼ぎのトルコ人が多く、半分、"難民列車"と化している。
 
 実は1989年の「東欧革命」の取材の折、この列車に乗ったことがあった。あの時はソフィアからベオグラードへの逆方向だった。トルコ人の出稼ぎの男たちとコンパートメントで一緒になり、さんざんウォッカを飲まされて参ったことがある。コンパートメントは男たちの汗、たばこと酒の匂いに包まれて、生き地獄のようだった。

 日本にも"出稼ぎ急行"といわれた列車があった。急行「津軽」で、奥羽線経由で上野と青森を結んでいた。多くの出稼ぎ労働者が乗り、荷物の山に囲まれて、日本酒が回ってきた。昭和40年代の高度成長期の、昔の話だ。

 さて、われらが「バルカン急行」は19時55分、

20090726_sofia_to_istanbul.jpg定刻より45分遅れて出発した。午後8時近くといえども、こちらの夏はまだまだ夕暮れにもならない。たそがれてくるのは9時過ぎてからだ。西の国々だから日の暮れが遅いのである。ようやく眠りについた23時30分頃、突然のノックで飛び起きる。ドミトリグラード駅、国境越えのパスポートコントロールで、ボーダーポリスが乗り込んでくる。顔とパスポートをチェックして終わった。ここでブルガリアとはおさらばだ。

 今度は、本当に寝入った深夜の1時20分、ふたたび部屋をノックされて飛び起きる。トルコの入国審査である。乗客は全員駅に降ろされ、長い列を作って窓口に並ぶ。30分、1時間と平気で時は経ってゆく。車両に戻ったら、今度は全員が乗っているか、の再チェックがはじまった。検察官が一人一人のパスポートの入国スタンプをもう一度確認してゆく。

 列車での国境越えは短くて1時間、長くて3時間以上かかる。バルカン急行が国境駅のKAPUKULEを出たのは、午前4時5分! ほとんど全員が不眠のまま、イスタンブールの朝を迎えるのであった。

ソフィアの通訳ガイド、シルヴィアさんに大感謝!

7/24(金) ソフィア

 ソフィアはまだ昔の東欧の気風が残る古き、良き街である。通訳ガイドのシルヴィア・ポポヴァさんとそんな郷愁の街を歩いた。
 
 20090724_sofia.jpg街の中心に温泉があった。ローマ帝国が侵入し、続いてオスマントルコの長い支配の続いた街だ。両民族の大好きだった「温泉」は今も健在である。温泉は市中の広場に設備があり、蛇口からどんどんお湯が流れ出している。市民はそれを飲んだり、ペットボトルに入れてもち帰ったりしている。
 

 つまり、飲泉なのだ。きけば肝臓によく、お茶やハーブティーを作るとおいしいそうだ。さっそく飲んでみると、味はなく、癖もなく、日本でいえば炭酸泉というところ。街のどこでも売られているミネラルウォーターの名も「BANKIA」という名で、温泉水という意味だった。

  街の中央に食糧品店が店を出す「ツェントラルニ・ハリ」なるバザールへ行った。100年続くという歴史的建造物は、見事なもの! バザールというよりもデパートの元祖のような雰囲気だった。

そこで事件は起こった! 一度あることは二度あるものなのだ。

 バザールの入口が混雑しており、なかなか前へ進まない。なにかスカーフのようなものがヒラヒラと腕にまとわりつくので、気になって、後ろを振り返ると、スカーフの下にぼくのバッグがあり、そのなかになんと手が入り込み、ぼくの財布を握っているではないか!
「あ! 悪魔の手だ」
――そう思った瞬間、女の手をつかんだが、女は手を握られたまま、財布を離さない!
「泥棒だ!」
 思わず叫んだ時、先に行っていたシルヴィアさんが矢のような速さで、戻ってくるやいなや、女の手にかみついた! 
「ギャー!」
女は財布を手から離し、シルヴィアさんと絡みあう。やがて警官がかけつけ、大騒ぎになったが、犯人の女はもう逃げ去っていた。

 あやういところだった。ローマのスリは芸術的だったが、こちらのスリは劇画調だ。調べによると相手は三人組のジプシー。一人の男がぼくの前におり、入口をふさぐ。二人目の女がスカーフをぼくのバッグにたらす。そして三人目の直接犯がバッグから財布を抜き取る、という寸法だ。
 ソフィアにジプシーは古来より住んでおり、定住者はおとなしいが、"流れジプシー"には犯罪者が多いという。
 シルヴィアさんは、
「かみつくなんて、咄嗟にやったことで、こんなことはじめて!」
と、息を荒立てた。
 シルヴィアさんに大感謝!「客を守る」というガイドのお手本のような人だった。カメラを手に、メモをしながら、というぼくの動向を見て、犯人らは最初から計画した。「安全は戦って守る」というヨーロッパ人のエスプリを教えられた事件だった。

難民列車の旅

7/23(木) べオグラード発ソフィア行き

 ベオグラードからソフィアへは491列車に乗った。ベオグラードを朝の7時50分に出て、ソフィアへは夕方の5時40分に着く。418kmを10時間かけて走る国際列車だ。トーマス・クックの時刻表にも出ているので、優等列車だと思い、ファーストクラスのコンパートメントのチケットを入手していた。

 ところが乗ってみれば、6人掛けのコンパートメントで、満室状態。しかも両隣を見ても、決して品格の正しい紳士、淑女には思えない人々(失礼!)で、ぼくの席にはすでに荷物を抱えた失業者ふうのくたびれた男が座っている。

 

20090723_beograd_to_sofia.jpgきっぷを見せると、「そうか、悪かったな」というような仕草で素直に席をゆずってくれたまではよかったが、今度は車掌が検札にきて、「ソフィア行きかい? このきっぷは違うよ。前の車両だ」と席替えを強制されてしまった。号車と席番を確かめたのに、何だかおかしい、と思いながら、しぶしぶ車両を移ったが、こんどは移った車両の車掌が「このチケットの席はない」という。

 一体どうなっているのだろう? 聞けばこの列車、3層建てで6両編成のうち、2両がソフィア行き、2両はイスタンブール行き、さらに2両はマケドニアのテッサロニキ(THESSALONIKI)行きだという。それでそれぞれの国の車掌が乗っているというワケだ。どうやらぼくが乗ったのは乗客の風体からしてマケドニア行きだったらしい。

 ところがソフィア行きの2両はセカンドクラスのシート座席車と寝台車の2両しかなく、ファーストクラスのコンパートメントはない! とのこと。「どちらにするかね?」ときかれて、「寝台車の方」と言ったら、10ユーロの割増料金をとられてしまった。国際列車には違いないが、各駅停車並みに止まり、次から次へと荷物を抱えた人々が乗ってきて、ギュ―詰め。人と荷物の山で、まるで"難民列車"のごとくであった。

 各国の混成列車だから食堂車はなく、車内販売もなく、途中の停車駅でポテトチップスと水を買い、ひもじい思いで10時間を乗り通したのであった。本当に「クルシロード」の列車旅だった。

銭湯を体験したい、とガイドに行ったら、トロリー・バスに乗せられた

 7/22(水)ベオグラード

 今回のシルクロード・アドヴェンチャー「鉄道見聞録」の目的は、ローマから奈良まで、ひたすら鉄路をたどることにあるが、それぞれの街でシルクロードの残影を追体験することをテーマにしている。

20090722_beograd_1.jpg すなわち、1つはバザール(露店市場)、2つ目は麺、3つ目は風呂(銭湯)である。バザールはおそらく西アジアや中央アジアで自然発生したものが、東は日本へ、西はローマへとつながったものだろう。麺はマルコ・ポーロが中国からイタリアに持ち帰ったものがスパゲッティとなったという定説があるが、果たしてどうだろうか? 西から東への旅で、麺を追うというのもこの企画の大いなる目玉なのである。3つ目の風呂、すなわち温泉や銭湯はどうなのだろうか?

  ローマ人はもとより、風呂好きで、占領した各地で温泉を見つけ、温泉場を開発している。トルコ人もトルコ風呂なる蒸気風呂が有名で、一時は日本でも風俗産業として花街を潤したこともある。というわけで各地の温泉や銭湯に入ってこよう、と思っていたのだが、ローマ、ヴェネチアには遺跡はあっても、実際に入れる共同風呂はもはやなかった。ここベオグラードはいかに?とガイドのトミチ氏に問うと、
「あるよ。いつでも体験できるよ」
 との気軽な返答。では市内観光の後に、ぜひ連れて行って、と頼むと、
「いいよ。もちろんさ」

 さて、セルビア正教の教会や城塞跡、モスク、バザールなど見て歩くと、夕方になってきた。
「風呂は? ぜひ体験したいのだが」
 と釘をさすと、
「最後にしよう。ホテルに帰るのも便利だから」
 と、ついに日は暮れ、ガイドとの契約時間が迫ってきた。
 共同風呂は言葉も分らぬ旅人がひとりで簡単に体験できるものではない。トミチ氏が一緒に来てくれなければ、やはり気おくれしてしまう。
「さあ、君の念願がこれで叶うよ」
 
 と、登場したのは、なんとトロリー・バス!!

 ぼくの言った『パブリック・バス』を、トミチ氏は『トロリー・バス』のことと勘違いしていたのだ。BATHとBUSの発音違い!この辺がぼくのブロークン・イングリッシュの限界なのだ。

20090722_beograd_2.jpgそもそもバスのことを話した時、

 「タオルとか必要ないか?」
ときいたら、
「なにもいらないよ」
との返事だった。その時、「温泉なのか?」くらい、聞いておけばよかったのだ。
「このバスに乗ればホテルの前に行くから、そこで降りればいい」
そこで、目的は「共同風呂」のことだった、と言ったら、
「今は皆シャワーだからもうないよ。ホテルの裏にフィットネスクラブがあるから、
ジャグジーがあるかもしれない」
 というオチなのだ。
  バスの運転手はぼくらのやりとりを聞いてか、聞かずか、
「乗車代はいいよ」
 トミチ氏は運転手に、
「アリガトウ」
 と日本語で返した。
 
 まあ、共同風呂に入りたい、という外人観光客はいないだろうから、トミチ氏の勘違いはバス代タダで、許してあげよう。

カレーの匂いに誘われて

7/19(日)ヴェネチア

 ヴェネチアは世界中からの観光客でいっぱいだった。迷路のようにくねる路地をゾロゾロと観光客がゆく。道の両側にはカフェテラスやレストランがテーブルを出し、街中が露店市場という感じである。
ヨーロッパ系、アジア系、アラブ系と観光客も国際的で、英語、フランス語、中国語など、さまざまな言葉が飛び交っている。人口が約28万人という小さな街に、年間2100万人以上のツーリストが訪れるという。押し寄せる人の体重で地盤沈下が起こっているのではないか、とも思えるくらいだ。


 ふと観光客の足が途絶えた。とある裏小路から懐かしい匂いが漂ってきた。うふふ、カレーの匂いだ。

20090719_venezia.jpg 匂いの主は「EURO FOODS」という小さなテイクアウト・ショップだった。店の前にはテーブルがひとつだけ置いてある。                                 
「カレーライスあるの?」
ときくと、30歳くらいの若い店主が、にこにこ笑って、
「チキン・カレー、うまいよ」
と勧める。
「しめた!」イタリアに入って以来、"イタ飯"続きで、実は飽き飽きしていたのだ。スパゲッティもピッツアもおいしいが、毎日食べていると、さすがにうんざりしてしまう。

 気温は33度!猛暑のなかを歩いてきた。
 ここでカレーを食べてみよう。

 亭主のエメル・ラフマン君(32歳)はバングラディシュの人。故国から身ひとつで出てきて、
ヴェネチアのヒルトンホテルで7年修業し、この春ようやくここに店をもった。バングラの星である。
「日本には祖国を助けてもらっている。一番いい国だ」
リップサービスも怠りない。人通りは少ないが、家賃は安く、市場からも近いという。
「この街はいいところだよ。差別がないし、皆優しくしてくれる」
奥さんも故国から呼んで、今は一緒に働いている。黒髪で肌の艶やかなアジア美人だ。
 
 チキンカレーが4.0ユーロ、ライスが3.5ユーロ。ヴェネチアは店で食べるとピッツアが12ユーロ以上する観光地だから、安くて、うまくて、栄養バランスもこの上ない。

 懐かしい匂いに包まれて、ヴェネチアの昼餉を楽しんだ。

ヴェネチア

 いよいよ「平成シルクロード」の長旅がはじまった。
20090721_venezia.jpgローマから東へ、最初の街はヴェネチアである。
もともと独立した港湾都市国家として発達した
ヴェネツィアは、中世に最盛期を迎え、
"海のシルクロード"の大舞台だった。
ペルシャ、アラブと密接な関係をもち、
絹、香辛料、金、銀などの貿易で栄えたところだ。
一方、ここは中世より情報都市であり、
アドリア海を行き来するダウ船が情報機関だった。

 ところで現代の情報機関はインターネットである。今回の旅ではモバイルパソコンを携行していたが、はたしてヴェネチアのホテルでの通信は最悪だった。
 ローマでも同じだったが、各ホテルはプロバイダと契約しており、宿泊者は、個人的にプロバイダと24時間とか、2日間、3日間の時間単位で契約し、クレジットカードで支払うことになっている。その契約の手間が実に複雑なのである。

 ローマではテルミニ駅に近いホテルに泊まっていたが、ここでは「SWISS.COM」。ヴェネチアのホテルは「vodafone」と契約せねばならならなかった。ローマのホテルでは、イタリア語が分からず、フロント係に頼み込み、一緒に登録作業をしてもらい事なきをえたが、ヴェネチアの古風なホテルでは従業員も年配者が多く、パソコンが分かるものがいない。ぼくもパソコン音痴世代である。一応係だというおじさんが手伝ってくれても、あちらも日本語が分からないから、画面を眺めながら、あちこち触って、分らない者同士でラチがあかない。パソコンで時々のホットなスポットコラムを送る約束を編集部としてきたから、ストレスは増す一方だ。
 二人がかりで、2時間以上かけて、狭い部屋でやりとりし、やっと登録にこぎつけたが、今度はカード会社から拒否された。ローマで盗難に合い、翌日発行してくれた国際的なカード(Amex)だったが(VISAは東京でしか再発行できない)、インターネットのプロバイダ利用契約までの対応は即日ではできなかったのかもしれない。発行元の東京のカード会社に問い合わせると、深夜にもかかわらず「そんなはずはない」と現地に問い合わせてくれ、現地の会社からホテルにまで問い合わせがあり、またまた係のおじさんが部屋に登場することになった。しかし、おじさんがやっても、やはり駄目だった。カード会社の24時間体制ぶり、すぐさまのサービス対応には感服するばかりだが、しかし、結果的にはつながらない。

 ならば翌朝、近くのカフェでモバイルに切り替えて試したが、国際的に対応できるはずのEMOBILEもここでは「圏外」で役に立たず。街のあちこちにある、インターネット・カフェでモバイルを持ち込んで試したが、ここでも駄目だった。パソコンはなかなか手ごわいのである。

 ところが国が変わり、セルビアのベオグラードに入り、アメリカ系のホテル、ベストウエスタンホテルの部屋からは、たちまちのうちに高速度でインターネットに接続できた。このホテルはデータポートが全室付きで、個人でのプロバイダ契約の必要がなかったのだ。

 奢るな、ヴェネチアよ! かつては情報都市だったヴェネチアだが、今は観光客だけを相手にして、古(いにしえ)の栄華の夢に眠っている。かねてから地盤沈下が噂される街だが、情報基地としては、もはや沈んだままである。

 ついでにモバイルパソコンの用意を伝えておくと、今回ぼくは本体のほかに、EMOBILEのデータ通信カード(各通信会社で利用できる国が限られているので要注意)を携行した。忘れていけないのは変圧器とソケットで、ホテルには日本製品に対応するソケットはほとんど置いていないので、持参することをお忘れなきよう。ついでにクレジットカードも国際的に通用するものが必携だ。 オワリ

ヴェネチアへ

ローマ/7/16(木)
ナポリ/7/17(金)
ベオグラード/7/21(火)

20090718_eurostar_in_s.jpgヴェネチアへ/7/18(土)
 ローマからヴェネチアへはユーロスターの特急で行った。いよいよシルクロード特急の第1弾である。
 ローマ、テルミニ駅、4番線。ユーロスターは流線形のスマ--トなデザインだ。ファーストクラス2両、セカンドクラス5両の7両編成。ファーストクラスは、日本でいえばグリーン車だ。ところがこちらのファーストクラスはゆったりしており、向かい合わせの4人席の間には広々としたテーブルがある。本を広げて、読書もできるし、パソコンも十分に使える余裕がある。窓側も、ゆとりある空間のひとり座席だ。各車両の中央部にはスーツケースなどの大きな荷物が置ける荷物棚もある。
 車掌にきくと、定員はファーストクラス130人、セカンドクラス370人の合計500人。ローマ〜ヴェネチア(507km)を4時間27分で結んでいる。最高時速は300km。新幹線にはおよばないが、途中のボローニアから在来線となるため、急にスピードは落ちてしまう。
 イタリアの特急はIC(インターシティ)、ES(ユーロスター)、AV(アルタ・ベロチカ)などが有名だ。ICはヨーロッパ都市間を結ぶ昔ながらの国際特急、ESはローマを中心にヴェネチア、ナポリなどの都市間を走る特急で、AVはローマ〜ミラノ間の高架鉄道で、日本でいえば新幹線に相当する。新線も在来線も同じ標準軌道(1435mm)なので、今回乗ったユーロスターはボローニアまでは高架で走り、ボローニアから在来線となり、ローカル線並みの速度になるのだった。
 さて、車窓にはのどかな農村風景が広がり、オレンジ色の農家の屋根が夏の光を浴びて輝く。列車は映画「旅情」でキャサリン・へプバーンが涙を流して別れを告げるヴェネチア、サンタルチア駅をめざすのだが、旅の話は本編でたっぷり語りたく思う。

ナポリのサンタルチア海岸、その地中海に面したレストランにいる。

20090717_napoli.jpgのサムネール画像7/17(金)ナポリ

 キムタクが有名にしたという「Lacryma Christi(キリストの涙)」なる白ワインを飲み、真っ青な海、空に浮かぶ夏のちぎれ雲を眺める。37度の猛暑だが、日陰にいると、潮風が心地よい。まるで「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンのような気分になっている(古いか?!)。
 
 ローマが東京とすれば、ここには大阪のような自由さがある。洗濯物を国旗のように並べて道路に干す下町の女たち、狭い道路では、車の窓から顔を突き出し、クラクションを鳴らす男たちがあふれる......人の匂いが濃い街である。人の物語がはじまる街だ。
 ナポリといえばシーフード。フォークに「カラマール」新鮮な"烏賊"、「ガンべローネ」と言いつつ、ゆでたての"海老"を味わう。おっと、それは「オラータ」と"黒鯛"を炭火で焼いてもらう。などとダジャレを楽しみながら、ここでは時がゆったりと流れてゆく。

 海外取材で嬉しいのはランチタイムが長いことだ。東京ではざるそば一杯で済ませてしまうが、ここではそうはいかない。
ついでに覚えたばかりのイタリア語を伝授すると、ツナミ(津波)、カミカゼ(テロリストが突入すること)。カラオケもまだまだ健在のようだ。デザートはBaba(ババ)をいただく。キャラメル味のスポンジにラム酒をたらしたもので、伝統的な南イタリアのデザートだそうな。

 さて、本命の取材はナポリに「スパゲッティ・ナポリターナ」が存在するかどうか?なのだ。通説ではスパゲッティ・ナポリターナは日本の横浜で作られたもので、本場のナポリには存在しないというが、、、さて、その真相はいかに?
 来年からはじまる本誌「シルクロード・アドベンチャー」で詳細を報告するから、気長に待っていてほしい! ではまた、チャオ!

旅のプロもやられた!ローマのスリにご用心

7/16(木)

 「全シルクロード街道」、ローマから奈良への取材の初日だった。東京からローマに入り、ヴァチカン、アッピア街道などの撮影を終え、翌日のナポリへの列車の指定席を購入し、充実した1日の終わりを迎えていた。ローマの玄関口の中央駅、テルミニに近い路上のことだった。人混みの中で、ポケットがふと気になった。瞬間のことである。気がつくと財布がない!まさか!と思った。駅前のJTBで支払ったばかりだった。300mも歩いていない。呆然として訳が分からなかった。いきなり理由もなく路上で刺された気分である。

 その夜、ローマ在住17年という通訳の村瀬仁美さんとカメラマンの堀さんと三人で食事をした。そこで「ローマでは最近スリが横行している」との話を聞いていた。世界的な不況のなかで、東欧や南米から出稼ぎの男たちが多く集まっている。中には置き引きやスリでやむなく暮らしている男たちもいるようだ。最近はペルー人の天才的、芸術的スリが話題になっており、まったく人に気付かせないという。村瀬さんも一瞬の間に時計とブレスレットを抜き取られた、という離れ業の被害者の一人だった。
 
 というわけで、旅の最初の報告から情ない話になってしまった。思い出せば、ローマでは大の男が首からポシェットを吊して、街を歩いている。少年兵のように肩から十字にバッグを下げている女性も多い。ポケットは一番狙われるとか!
 そこで、反省!20090716_rome.jpg
1、日本人は狙われていることを自覚すること!
2、駅構内、駅前は危険ゾーンだから要注意!
 3、持ち物は一つにまとめ、目から離さない!

 というわけで、さっそく「首吊し袋」を購入し、ローマ人に習ったのである。
「郷に入っては、郷に従え!(when in Rome, do as the Romans do!)」
これローマのコトワザじゃなかったかしらん?